菊と刀
著:ルース・ベネディクト 訳:長谷川松治
講談社学術文庫
有名な本であるが実はちゃんと読んだことがなく、ここにきてあらためて読んでみた次第。こういう風になんとなく内容は聞きかじっているけれど実は読んだことがないという本はたいへん多い。
さて、2020年も間近という現代に「菊と刀」を読んでびっくりするのは、いまだに日本人はこうなんじゃないかというところをたくさん散見できることだ。さすがに仲人&お見合い結婚も、威厳のある親父も、寝相をしつけられる女の子も今はいなくなったが、表象としてそういうのがなくなっただけで、その根底にあるメンタリティはいまだに多くの日本人にあるように思う。有名な「恥」の意識、なんてのはその最たるものだ。他人からの評価、社会からの目線が当人の自己評価を決定するところなんか、今なお現役ばりばりの日本人あるあるだ。
ほかにも「義理」(著者によるとアジアを含む他のどの国のコトバにも訳せない日本独特のメンタリティ)という感情、「矛盾」をそのまま共存させることに平気というのもそうだ(多神教ならではだと思う)。また、「立場にふさわしいかどうか」にこだわることの指摘なんかもこうやって言われるまで気づかなかったが、確かにそのとおりである。現代だって庶民的な人が急に羽振りが良くなったり金持ちになったりすると日本人は嫉妬まじりの嫌悪感こそ示しても、そこにアコガレや素直な成功者としての称賛はほとんどみないだろう。我々日本人には、その人の本来の立場、位置、役割に対してのふさわしいいでたちやふるまいというもののコモンセンスをなんとなく持っている。年下の上司、モノ申す新入社員、平日の保護者会に出る父親、サラリーマンより稼ぐユーチューバーの高校生、そういった存在は少しずつ社会に広がってきているが、その座りの悪さ、どこかにイレギュラーな気持ちがあることは今なお健在である。いわゆる身分不相応というやつだ。これをベネディクトは「日本人は、与えられた位置や立場にふさわしい行動様式というのがあり、そこから逸脱することに不自然を感じる」ということを指摘する。日本は性別役割機能分担意識が強い、ということは社会学者の多くが指摘することだがこれも「立場とふさわしさ」の一種だろう。
もっとも、現代的観点において比較文化論あるいは文化人類学としてみれば、「菊と刀」は突っ込みどころも多いとされる。現地(日本のこと)でフィールドサーベイしていないこともそうだけれど、西洋の行動倫理を規範とした場合の距離感、つまり文化人類学というよりは博物誌的な感覚で考察されているという指摘もそういわれればその通りだ。なぜ日本人は「立場と役割」にそんなに拘泥するのか、といった理由の発掘もまだ浅いといえば浅い。
とはいえ、本書が書かれたのは1946年、もう70年前。アカデミズムのありかたも現代とは違う。そもそも「菊と刀」はアカデミズムな論文というよりは、GHQがいかに平和裏に日本を占領統治するための基礎研究として本書は書かれた。そういう意味では「結果として」本書はかなり機能したと言えるのではないか。
それにしても、まさにここがヘンだよ日本人の元祖。著者は一度も日本を訪れたことがなく、すべて文獻と日系人の行動観察から導いたもの。たまに変なところがあるが概ね思い当たる節がある。さすがだ。むしろ文獻と日系人の観察だけでここまで迫ることができることの証明でもある。しかも解説を読むまで気づかなかったのだがルース・ベネディクトは女性である。なぜかずっと男性だと思いこんでいた。こんな先入観があってしまうのも僕が知らず知らずのうちに「立場とふさわしさ」の罠につかまってしまっていたからか。