国道16号線スタディーズ 二〇〇〇年代の郊外とロードサイドを読む
塚田修一・西田善行 他
青弓社
東京の郊外論をたまに読む。で、読んでは鬱な気分になる。
なんでかというと、ぼくはまさしく東京郊外で育ってきたからだ。それもずばり本書にも登場する埼玉県狭山市ーー市の片隅を国道16号線がかすめていた狭山市に小学生のころ住んでいた。しかも公営団地で。
我が家は自動車がなかった。移動は公共の交通機関か自転車か徒歩だった。だから「国道16号線」は縁がなかった。縁はなかったが、その存在は知っていた。入間川という川の向うにトラックや自家用車がひっきりなしにやってくる道路、ぼくはその様子を遠くから眺めていて、その光景を今でも思い浮かべることができる。
僕が狭山市に住んでいたのは、1980年代だ。だからまだBOOKOFFもイオンモールもなかったし、そもそもコンビニがまだ黎明期の頃だが、一方で西友やニチイやダイエーや忠実屋といった大型スーパーないしショッピングストアがあり、すかいらーくや靴流通センター、大型電器量販店(今は淘汰されてなくなってしまったがセキド電気といった)といったいわゆる「郊外型店舗」がたしかに道路沿いにあった。忠実屋なんて鉄道の駅も西武バスのバス停からも遠いところにぽつねんとあってなんでこんな不便なところに巨大なショッピングストアが、と思ったものだった。小学生の僕はとにかく自転車を乗り回していて、この忠実屋にも、森林の中の鬱蒼とした道を通り抜けて行っていた(スイミングスクールが併設されていたのだ)。
それにしてもこの本に書かれていることは二〇〇〇年代と言わず、一九八〇年代でもかなりあてはまっている。本書でも一章を割いて狭山市に言及しているがまあ本当にそうなのだ。本書の指摘にもある通り、狭山市というところはわりと恣意的に行政区域となった市で、しかも広大な自衛隊の基地がある。社会科の授業では私たちのまち狭山市について知りましょう、というのがありながら、地図を広げると広大な真っ白区域があって、そこは航空自衛隊入間基地なのである。当時はGoogleEarthなどなかったから、そこは知識として自衛隊の基地があるところなんだ、ということしかわからない。年に1度、航空祭というのがあってその日だけ市民に開放されるがその一日以外は誰もその存在を感知しない、しかし歴然とそこにある空白地帯であった。そして担任の先生は、その空白地帯について一切何も言わないのだ。そんな学校の上空を戦闘機が轟音とともに通り過ぎた。そんな時代だった。
放課後になると自転車で団地の外に繰り出した。団地の外はまだ茶畑や野菜畑が広がっていて、本書でも指摘があるように、高圧線の鉄塔が立っていた。夕方頃になると、逢魔が時の丘陵地帯のむこうに鉄塔のシルエットが並んで、それをみると心細くなってはやく家に帰らなくちゃという気分にさせられた。
狭山市とそれに隣接する入間市、所沢市、川越市。いずれもまだまだ広大な農地と雑木林が広がっており、その中に衛星都市のように団地とかニュータウンのようなまちが点在していて(本書曰くの「スプロール状」)、それを県道や二級国道が結んでいるという感じだった。僕は自転車でそんなまちを心細くもなりながら好奇心がまさってあちこち走り回って巡ったものだった。まちとまちの間は本当に畑か雑木林ばかりであり、そんなところに成人雑誌の自販機がぽつんと立っていたりした。
狭山市の人口はどんどん増えて、森林が切り拓かれて新しい団地やマンションができるようになった。ぼくの通っていた小学校は同学年で最高7クラスまでできた。運動会は紅白では足りなくて、4色くらいの対抗戦になった。本書によると完全に自動車客相手ということなのだった。
それでも国道16号線だけは無縁だった。遠くから、ひっきりなしに続く自動車の群れを眺めるだけで、ぼく自身が自転車で16号を走ったことはたぶん無かったと思う。
本書の言う通り、国道16号線を有した狭山市は典型的な「16号線的」郊外であったが、これまた本書が指摘するように(僕という)狭山市民とは関係性が切れた道路だったのである。
当時の僕は郊外以外の生活を知らなかったのでそんなものかと思っていたわけだが、やがて社会人となっていろいろ見知るようになり、一次的とはいえ都心に住んでみたりもして、そうすると「あの郊外の生活はなんだったんだろうか」と相対的に省みるようになる。そして、僕のネガティブなところと郊外というものがシンクロしてくる。責任転嫁意識なのかもしれないが、この頃の思い出は、どちらかというとイヤな気持ち、自分的には黒歴史、トラウマみたいな記憶として残っている。そこには郊外的なものが、本書になぞらえれば「16号線的」なものが後景となって広がっている。怒り、妬み、屈辱感、疎外感、喪失感。郊外論を読むとそのときの記憶や気分がよみがえってきて鬱になる。
それなのにたまに郊外論に手を出してしまうのは、自分のルーツを知りたい怖いものみたさみたいなものか。(本書のコラムによるとマツコ・デラックスは16号線沿いの郊外生活に原体験があることを「身の丈の幸福」と称して愛情をもって語っているそうだ。僕がこんな風に思えなかったのは「身の丈知らず」だったということだったのかもしれない。)