世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」
山口周
光文社新書
本書でいうところの「アート」と「サイエンス」に近いのだけれど、「文系の感受性」と「理系の方法論」の両方を併せ持った人こそが最高だなと僕は常々思っていた。日本人でいうと夏目漱石の友人で知られる物理学者の寺田寅彦がそうだ。寺田寅彦の随筆集は岩波文庫から何冊か出ているがどれも小粋と論理が絶妙にブレンドされていて、平成の終わりの今となってもほれぼれする(路面電車の混雑に関する考察は、現代でもエレベーターや地下鉄で観られることがあり、僕はそれを応用している)。
寺田寅彦の自己紹介短歌が素敵である。
”好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物”
こういう句が書けるセンスの人になりたいと思う。
というわけで、エリートはなぜ美意識を鍛えるのか。VUCAの現代、論理だけでは真の解決は見いだせず、アート的なセンスによる直覚型の判断ができるようにならなくてはならず、そのためには「美意識」を磨かないとならない。世界のエリートはそこにとっくに気が付いていて美意識磨きに余念がない。逆に「美意識」を持たないでエリートの座にいる人は社会にとって「危険」である、というのが本書の導入である。
僕が周囲を見ている限りは、「美意識」のもともとある人(少なくとも「美意識」が育つ素養がある人)が真のエリートになるのであって、エリートになった人があとから「美意識」を磨こうとしても見てくれに終わるというか、そんな人はつかの間のエリートか、あるいは”担ぎ出された”エリートなのではないかとも思う。したがって本書が要求している「美意識」とは、セミナーや研修でビジネススキルのように身に着けられるものでもなさそうだ。もっと大学生とか高校生とか、もしくはもっと前から自覚的にならなければならない素養のように思う。
本書の後半で、基礎として(古典の)哲学」を学びなさい、というところがある。古典の哲学からは
①コンテンツ
②プロセス
③モード
を学ぶ力が鍛えられるからである、というのが本書の主旨だ。
その通りではないかと思う、とともにこれこそが「美意識力」の正体なのではないか。
少し言い方は違うが、「表側」と「中身」と「背景」、あるいは「現象」と「原因」と「環境」、でもよい。つまり、目の前にある①コンテンツ・表側・現象には、そこに至る②プロセス・中身・原因があり、そういう現象を起こす時代や地域という③モード・背景・環境がある、ということだ。
で、古典哲学に限らず、アート鑑賞に限らず、すべての学問はつきつめるとこの3つを学ぶためにあるのではないかと思うのだ。つまり、手がかりからこの世界の正体を知る、という思考はこの3つを通じて行うのである。これが教養つまりリベラルアーツの正体であろう。世界の正体を知るということは、世界に対して自分を相対的に位置付けることができるということであり、自分を相対的に位置付けられれば、その世界の装置に自分は組み込まれていないと解釈できるようになり、その結果、自分は自由(リベラル)になれる。つまり自分を見失わない能力というのがリベラルアーツと言える。
だから、哲学を学ぶと確かにコンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力が鍛えられるけれど、畢竟すべての知識は、そのつもりで学ばないと”生きた知識”にならないと思う。逆にこれさえ会得できれば、散歩ひとつでも無限の知的体験に昇華させることができる(ブラタモリがそうである)。
しかし、このような、コンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力をつける、というのはかなりの鍛錬を必要とするよなあ。一朝一夕で身につくものではないし、よほど自覚的でなければならないし、そもそも日本の教育体系はそうなっていない。大学入試改革も検討されていて文理の垣根をとったり、思考力を鍛えるカリキュラムが考案されているが、つまりそれくらい教育の根っこからつくりあげていかないと、こういうセンスは育まれない。
そういう意味では、本書も実はけっこう意地が悪い確信犯だよな、と思ったりもする。つまり、美意識なんてものは簡単に身につくものではありませんよ、場合によっては手遅れですよ、だからあなたがたは「エリート」ではないんですよ、という突き放したところがあちこちに感じられる。プラトンやカントやアーレントまで引き合いに出して、世界のエリートはこのレベルで議論をしているのだ、お前らついてこれるのか? とまあそういう態度の本と言えなくもない。
そんな本が2018年のビジネス書大賞受賞とのことだ。ニッポンのサラリーマンのコンプレックスをぐっと突いたんだろうと思う。(「ビジネスマン」というとパリッとしているのに「サラリーマン」というと急に悲哀が漂いだすのはなぜなんだろうか?)