昨日までの世界 文明の源流と人類の未来
ジャレド・ダイアモンド 訳:倉骨彰
日本経済新聞社
他の本と並行しながらちまちま読み進めていたら上下巻で1か月以上かかってしまった。内容はとても面白く、決して難解なものでもないが、ひとつひとつのエピソードや論旨が意味深なことだらけで、傍線を引いたりアタマの中で再整理しながらの熟読となり、あたかもひとコマずつ授業を受けているような感じの読み方となってしまった。
「昨日までの世界」とは、西洋型(とくにアメリカ型)の現代生活を送るようになる以前、人々はどのように社会を形成し、どのように生活してきたかを、ニューギニアをはじめとする世界各地の前近代的=伝統的な民族のライフスタイルから考察する試みである。著者のフィールドワークや他の学者からの研究発表などを編集しながら、西洋型現代社会と伝統型社会それぞれのメリットデメリットをとにかくいろいろな角度から考察する。
知的刺激というかインパクトの点では「銃・病原菌・鉄」のほうに軍配が上がるが、いろいろ人生や生活に学ぶところがあるなあという点ではこちらのほうが上かもしれない。「昨日までの世界」で人類が学習してきたもの、人類が会得してきたものの中には、西洋型現代社会が近代化の過程で捨て去ってしまったものがけっこうあるが、これからの世界にとって実はヒントになることがたくさんある。日本を含む現代社会がかかえる様々な課題に対し、「昨日までの世界」は決して過去ではなく、現代のオルタナティブな在り方として多いに参考になる。最近はとにかく未来を問う本が「ホモ・デウス」はじめ次々と出てきているが、「ホモ・デウス」や「拡張する未来」を読みながら、一方でこの「昨日までの世界」を併読してきたのは、幸運な読書体験だったかもしれない。
「近隣住民との付き合い方」「子どもの育て方」「ご近所トラブルの対処法」「バイリンガル」「商売の仕組み」「病気やケガのリスク感覚」「高齢者の取り扱い方」「宗教の機能の仕方」などとにかく様々なテーマで比較文化論が展開されて圧巻なのだが、印象的だたったものを以下にいくつか挙げてみたい。
①「建設的なパラノイア」・・・伝統型社会の人々におけるリスク回避の取り方
②大人社会の「ひな形」として機能する子どもの遊び
③伝統型社会にほとんど見られない高血圧と糖尿病の話
①「建設的なパラノイア」というのは、リスク工学でいうところのヒヤリハットに近い。大事故というのはだいたい小さな事故がいくつも偶然条件的に重なって起こるもので、その小さな事故がひとつでも起きていなければ大事故にはならなかったりする。一般にひとつの大事故が発生する前に、大事故に至らずにおわった30の中事故が見過ごされており、その中事故さえ未然に終わった100の小事故が見過ごされている。「建設的なパラノイア」はその100の小事故を自覚的に警戒するというものだ(こんな仕方の説明を本書ではしていないが、そう外れていないはず)。
なぜなら伝統型社会では中事故や大事故が起きたときのリカバーが西洋型現代社会ほど期待できないからである。病院や医療技術の水準も低いし、福祉や保険の水準も低い。足の骨を折るだけでも命とりになったり、その後の人生を棒にふったりする。骨折どころか切り傷ひとつでも破傷風リスクがある。したがって伝統型社会では、西洋型現代社会では見過ごすような些細なことでも慎重になる。朽ち木が倒れてこないか、足場の悪いところで転ばないか、ここに見知らぬ誰かがきた可能性はないかなど、野生の勘ともいうべき警戒センスが働くように習慣づけられている。
西洋型現代社会は万事仕組みが整っているので、いちいち街路樹の木が倒れるんじゃないかと心配することはないし、家の鍵は頑丈だし、少々風邪をひいたところで手近に薬も病院もあるし、室内空調も効かせられる。とはいうものの、この「建設的なパラノイア」は一聴に値するだろう。リスクというのは「発生確率」×「生じたときのダメージの大きさ」で計算するが、いま自分が肌感覚で感じているリスク計算、つまり風邪とか交通事故とか失業とか天災に対しての「発生確率」と「生じたときのダメージの大きさ」それぞれの見積もり感覚は、案外数十年前のだったりするのではないか。VUCAの時代でもあり、社会保障制度も先細りの日本であることを考えると、もう少し我々も「建設的なパラノイア」になったほうがいいかもなと思った次第である。
②大人社会の「ひな形」としての子どもの遊びの話も、言われてみればなるほどというものだ。つまり伝統型社会での子ども時代における狩りの真似事や木登りやナイフを使った諸々の細工は、大人になってそのまま獲物をとらえたり、見張りに登ったり、様々な道具をつくるスキルになる。女の子の場合、まだ子どものうちから近所に住む自分よりさらにちいさい子どもの面倒を買ってでる。それが自分が母親になったときの訓練になる(おおむね10代で母親になる)。そして子どもの遊び集団は基本的に性年齢が多様で構成される。大人の社会はもちろん性年齢が多様であるから、多様空間の中の身の処し方を自然に身につけたまま大人になることになる。
これに比すると、日本も含む西洋型現代社会の子どもの遊びは、ゲームやスマホでの動画視聴がかなり幅を利かせるようになり、出入りするコミュニティがきほん的に同性同学年であると考えていくと、そこで培われたスキルが、社会に出て稼ぐ必要性が出たときに直接作用するかというと、伝統型社会に比べれば距離があることは否めない。
なお、本書では子どもの育て方、とくに乳幼児の育て方について詳細に比較されている。赤ん坊の抱き方、授乳のタイミング、直接の両親以外以外の大人の関わりかたなど。子どもの抱き方とか授乳にまつわる話なんかは、日本はアメリカ型というより「昨日までの世界」に近いところもあり、日本はやはりアジアなんだなと思ったりもする。
③の高血圧と糖尿病については、「昨日までの世界」には高血圧も糖尿病もほとんど存在しない、という事実が何を意味するかという問いかけから始まる。そんなの「西洋型現代社会」のファーストフード型食生活が原因でしょ、と言えばそれまでだが、本書は単に食事の問題としてそこで思考停止していない。着目するのは、「伝統型社会」に生きていた人が、政府の保護とか移住とかの事情で急に「西洋型現代社会」に移ったとき、従来そこで「西洋型現代社会」をしてきた人よりも高血圧や糖尿病に発病する確率が高まるというところである。
これすなわち、長い人類の歴史において「塩分を身体に蓄える能力(具体的には腎臓の能力)」「糖分を身体に蓄える能力(具体的には脾臓の能力)」を必要とした時代が長かったため、飽食の今日になって通常の現代的食事内容と現代的運動量では、自動的に塩分も糖分も過剰になる、ということなのだ。伝統型生活において調達される食事の量や栄養バランス、調達される頻度のばらつきというものは、過去の人類の歴史のそれに近しいだろうというのは想像に難くない。また、運動量もずっと多い(食糧を確保し、住宅環境を安全に保ち、日々の移動で十分すぎる運動量となる。過去の人類がそうだったように)。我々の生理学的な身体能力は、塩分と糖分についていまだ過去の適性を失っていないのである。
したがって「西洋型現代社会を無批判的に送っていると自動的に高血圧・糖尿病になるリスクが高い」ことを意味する。食物繊維や野菜はむしろこちらから積極的に探し出して食べに行かなければならないし、塩分糖分は外食や加工食品にはとにかくたくさん入っているから意識して回避しなければならない。
などなど。他にもいろいろ考えさせられることが多い。
もちろん「伝統型社会」には、残酷めいた風習、殺し合い、人権的な問題、不衛生も大いにある。著者が本書中で何度も主張するように、すべてが「伝統型社会」に学ぶものでないのは確かだ。
大事なのは、温故知新、そして弁証法的とでもいった思考態度だろう。「伝統型社会」はそれはそれで10000年にわたる人類の知恵が切磋琢磨されたところであり(著者曰く「自然実験」)、前近代だからといって下に見るものでも博物誌的な興味対象にみるものでもないだろう。伝統型社会が「昨日までの世界」ならば、歴史に学ぶ、という点ではこれ以上に豊富な歴史はないわけである。