読書の記録

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ピュリツァー賞作家が明かす ノンフィクションの技法

2020年04月25日 | エッセイ・随筆・コラム

ピュリツァー賞作家が明かす ノンフィクションの技法

ジョン・マクフィー 訳:栗原泉
白水社


 タイトルからするとハウツー本を想起させるが、どちらかといえばエッセイである。原題は"Draft No.4”サブタイトルは"On the Writing Process"。第4稿。執筆のプロセスといったところか。

 とはいうものの、たしかにノンフィクションの技法、そうか、ノンフィクションを記すというのはこういうところに気を使うのか、というのがわかる内容ではある。
 ただ、その書きぶりは、完全にネイティブなアメリカ人によるセンスとユーモアによるもので、そのインサイトをつかんでいないと、本書に書かれている味わいはなかなかわかりにくい。白状すると、僕にはよく理解できないところがたくさんあったのである。たぶん気がきいたジョークを言っているんだろうな、と思うのだが何がいいたいのかピンとこない。どれが冗談でどれが真剣に語っているのかもいまいちくみ取りにくい。どうやらこれがオチらしいが、なぜこれがオチなのかがわからない。それにどうも話があっちこっちいったりする。たぶんすごく凝ったエッセイなんだろうと思うのだが、どうも僕は期待にそえる読者ではなかったようだ。

 それでも、ノンフィクションを書くということのなんたるかが垣間見えた。フィクションの小説を書くのとはまったく違う気苦労があるのだ。

 それは要するに「事実を書かなければならない」ということと「著者のクリエイティビティを出さなければならない」ということのぎりぎりのせめぎあいである。

 つまり、取材先が何か言ったら、その言った通りのことを書かなければならない。ノンフィクションなのだから。しかし、取材先の一言一句を丸写ししていたら冗長になって話にならないだろう。だから刈り込みの編集が必要になる。しかしその編集はノンフィクションを語るとしてどこまで許されるのか。
 著者マクフィーのこだわりは、その取材先が話したコトバを、直接話法で書くのか、間接話法で書くのかの選択にも出てくる。そして、間接話法のときは、主語や述語の示す先から、そもそも語り手が言いたかったことの微妙なニュアンスまで徹底的に留意しようとする。

 それから、綿密なファクトチェックというのがある。ノンフィクションであるからには嘘があってはいけない。あの道は右に曲がったかそれともまっすぐだったか。屋根の色は赤だったか青だったか。某作家がほにゃららとという名言をはいたことになっているが、それは本当にエビデンスがあるのか。ちょっとした演出で書いてみた「アメリカにはイリノイ川が2本ある。どちらも知られていない」は、本当に「2本」しかないのか。出版社には専門のファクトチェックチームがいる。このチームが徹底的にリサーチしてみたら、イリノイ川はほかに何本もあることが判明する。「ないことを証明する」というのは悪魔の証明だが、ノンフィクションを名乗るからには事実をいいかげんにしてはいけないのである。。

 また、取材したことのすべてを本にするわけにはいかない。何をとりあげ、何は捨てるのか。しかし本来はノンフィクションだからすべては事実である。捨てるーー書かないことによる事実の棄損ということもありえるのだ。何を書かずに済ませるか。(取材メモの10分の1くらいしか原稿にはならないそうである)。ここにも著者は神経を使う。

 しかし、このように事実の下僕であることを強いられるノンフィクションを書くとき、ではどこでクリエイティビティを発揮させるのか。とりあげる題材がユニークであればそれでいいのか。


 そこで著者が明かすには、クリエイティビティの最大の発揮どころはその「構成」にある。

 「構成」というのは、どういう順番で書くか、ということだ。
 一番シンプルなのは、そして小学生の作文なんかでよくあるパターンは、「時系列」の順番で書くことだ。物事を秩序だてて整理しようとするときに時系列の強いる力は大きい。
 しかし、「時系列」はマンネリであり安直でもある、ということで、本書では時系列ではない技法が開陳される。本書の中でもっともハウツーっぽいところである。マクフィーが過去に書いた作品を例に出してその構造を説明する。それは円環構造だったり、2つの大きな流れがやがて1点に収斂されるYの字型だったり、渦巻き型だったりする。ずらりとならぶ吊り革型なんてのもある。ほかにも一人の人間を取材するときに、その人の関係者を3人取材して最終的に本人の実像にせまるABC/D型なんてのもある。
 実際にそうやって書かれたものがどんな体になっているのか彼の著作を読んでいないから詳細はよくわからないのだが、「時系列」というのが数ある手法の一種で、しかもチープであるという感覚を初めて知った。これは目ウロコだ。

 たしかにノンフィクションの傑作とされるサイモン・シンの「フェルマーの定理」は、単純な時系列ではない。時間軸でいうとまず途中から始まる。その次に過去の話となり、だんだん現在に近づいて冒頭のシーンにつながる。そのあと冒頭より未来方向への時間軸の話へとなっていく。「フェルマーの定理」は実にドラマチックで読み応えがあるノンフィクションだが、たしかに構成の妙も一役買っている。
 この「途中から初めて、そのあと昔に戻り、途中に追いつき、それから未来方向へ」という手法を用いた例は、他にもいくつか心当たりがある。

 そういえば、椎名誠の初期の代表作に「わしらは怪しい探検隊」というのがある。椎名誠と仲間たちによる島とキャンプの話だが、これの構成がなかなか面白い。最初は普通に島に行くキャンプ隊の話で、キャンプの話から始まり、やがてその由来の話となっていく。つまり、過去に戻って現代にむかって進む。しかし、冒頭の現代に戻るのかというとそうではなくて、いつのまにか何年後かに時空が飛び、探検隊の一員だった中学生の成長の話になって、そのあとまた島での騒ぎのシーンに戻る、という構成をとっている。これが実に効果的で、刹那的な島のバカ騒ぎと、そこから日常で成長していく少年の姿の対比となってどこか切ないのであった。椎名誠のノンフィクションや自伝的エッセイは、時系列の変幻自在が特徴で、それが独特の不思議な世界観をつくっていたんだなあ、などと初めて気づいた。

 なるほど。たしかにノンフィクション作家にとって、構成とは、クリエイティビティを生かすも殺すもありなのだな。もっとも著者によると「構成」とは、題材の上に型を押し付けるのではなく、その題材から生まれ出るものなのだそうである。ということは、題材から生まれ出る構成を見抜く力こそがクリエーティビティということだろう。納得である。

 


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