昨日、本ブログで紹介した映画「ハンナ・アーレント」の中で、主人公が執筆して物議をかもした著作(上の写真です。最初は雑誌ザ・ニューヨーカーの連載記事でした)が『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房 初版1969年)です。私は17年位前に読みました。雑誌に掲載された内容とどれくらい同じか分からないのですが、割と淡々とナチスのユダヤ人排斥の経過に分量が割かれていた記憶があります。映画で描かれていたような社会的な反発があったということが不思議なくらいです。しかし凄惨な迫害の記憶から15年しかたっていなかったイスラエルの人々にとっては我慢がならなかったのでしょう。映画の中では、かつてのアーレントの友人で今はイスラエル政府の高官になっている人物がわざわざアメリカまでアーレントに苦情を言いに来る場面がありました。興味を感じたのは、彼女に近いユダヤ系の人物ほど彼女に失望する度合いが高いように見えたことです。大戦中のユダヤ人救援活動の同志だったシオニストのクルト・ブルーメンフェルトは彼女の記事を読んで失望のあまり死の床についてしまいます。
ユダヤ人評議会のメンバーがナチスに協力したという事実にしても、アメリカに脱出できたアーレントような人物から、安全地帯にいることができた人物からそんなことは言われたくないという気持ちも分からなくはないですね。実際ナチスに逆らったメンバーは銃殺されていましたから。とはいうもののアーレントも一時は収容所への移送キャンプに拘束されていたので最初から安全地帯にいたわけでないですし、上記のように大戦中は迫害されたユダヤ人救援のために奔走していました。
またアイヒマンを「凡庸な悪」と表現したことも、被害者の癇に障ったようです。それはアイヒマンを免罪することにならないかということです。しかしアーレントは凡庸だからこそ悲劇はどこでも、これからも、いつでも起こりうるし、そのことの恐ろしさに警鐘をならしています。そしてアイヒマンが行ったことはユダヤ人に対する迫害というだけではなく普遍的な全人類に対する犯罪であることを明確に言い切っています。
改めて思ったことは自分自身が「凡庸な悪」に染まらないためにはどうしたらよいかということです。アーレントは「よく考えること。考えることをやめないこと」で凡庸な悪に染まらないことができると説きます。しかし凡庸な悪がいったん一般化してしまったらどうすればよいのだろう。