自分が凡人であると知ると、楽になる。
身近なたとえでいえば、自分が勤めている職場から突然自分がいなくなっても、現場ってのはゼンゼン困らない。
アメーバのように、誰かが誰かの代わりになって、なんとな~く組織ってのは継続してゆくもんだ。
やたらと「オレがいなきゃはじまらない」と考えているサラリーマン諸氏は多いようだが、80%ぐらいの人間は代替可能。
(有名な「20:80の法則」にのっとり)
誰もが、自分が「代替可能」だとは考えたくないんだよね。
プライドもあるし。
そこが問題!
自分は別に、その現場からいなくなってもゼンゼン問題ないんだ、と逆に考えることによって、楽になる。
中高年のサラリーマンの自殺も、減るだろう。
職場のストレスに「圧殺」されるヒトも減るだろうしリストラされて自殺するヒトも減る。
何が問題かって、なんか洗脳がかってるからね、「オンリーワン思想」みたいなものにね。
「ゆとり教育」の余波がオトナ社会にも拡がってるみたいな感じ。。
ビジネスにおいて、代替可能な人間を求めるフィールドは、たくさんある。そのへん、「クサいところにふた」をされてるんだよなあ。
でもね、代替可能なりにちゃんと、自分の仕事はしなきゃならないんだよ。それが大事。
で、もちろん、その職場にホントウに必要とされている人材もいるわけだが。。
(「キーマン」とでも呼ぼうか)
その人間がぽこっといなくなると、最初は「あれ? いなくとも大丈夫じゃん?」と思ってしまうのだが、職場におけるキーマンの欠損というのは、じわりじわりと効いてくる。
(多くのヒトは経験済であろう)
組織の「歯車」であればすぐに代替可能なのだが、歯車より上のレベルの人間がいなくなると、ぱっと見はパーツが欠けているわけではないので、困らない。
だが、結局制御系の性能がダウンしてしまうわけだから、全体に影響が出てくるんだよね。
キーマンがいなくなっても、結局組織はアメーバのように元に戻りはするのだが、中期的にみて組織の品質が下がる。それが、100%代替可能な存在と違うところ。100%代替可能とは、単なる部品交換と同じで、入れ替わっても組織の品質がまったく変化しないということ。
ここまではもののたとえであって、たとえがひとり歩きしてしまって僕の言いたいことから若干離れてしまったような気がする。
いくつか補足すると、
たとえば単調労働が求められる現場であっても、「キーマン」は存在する。単調労働の現場で働く人間のすべてが代替可能なわけではないということ。
次に、凡人であってもビジネス・シーンにおいては、(効果的かつ継続的な)努力によりキーマンとなれる。
世の中のほとんどの人間は凡人である。(誰もがプロ野球選手になれるわけではない)
ビジネス・シーンは才能がすべてではない。努力が報われるという点で、そして、いわゆる「才能」がいたるところでジャマになるという点で、ビジネス・シーンというのは素晴らしい。
なんだかうっすらと、ジャマだなあと感じるのは、「凡人の選民意識」みたいなもんでね。
職場において自他ともに認める「キーマン」となったときに、悪い意味での選民意識が芽生えてしまう。
それを、振り払いましょうよ、ということを僕は言いたいのだと思う。選民意識を振り払うことこそが「凡人であることを知る」ということに他ならない。
その選民意識は、組織の上層部にいいように利用される。
組織において、上へ駆け上がりたい、という野望を持っているのであれば、選民意識を持つのもよいのだけれど。。(それはそれで、すごくよいことだと思う)
世の中、そういう野望(そして、資質)をもったヒトたちばかりではない。
昨今局地的に取り上げられている「ハケン」ってのは、結局100%代替可能な人材なわけで。
元「25歳・ハケン社員」だった人間としては、昨今の問題については若干、気にはなっているのだが、書くと長くなりそうなので次回以降にゆずろう。
でも、僕の社会人人生は100%代替可能なところから始まっていて、未だに自分はそこから抜け切れていないからね。
ヘンな選民意識を刷り込まれなくてよかったような気がしないでもない。
「そこ」から這い上がろうという気持ちは、ものすごく強かったのだけれど、それはただ一点、「カネ」だけだったと思う。別に自分がオンリーワンになろうなんて、これっぽっちも考えてなくてさ、ただただ金銭的に上のレベルの生活をしたい、というそれだけのモチベーション。
「カネ」というモチベーションはけっこう、すがすがしいと思うのだが。。どうだろう?
「カネ」がすべてじゃない、とかカッコつけるよりは、ね。カネにガツガツしているのこそ凡人っぽくて、いいよね。
なんだかお屠蘇気分が抜けないのか、文章にしまりがないなあ。。たぶん続きます。
身近なたとえでいえば、自分が勤めている職場から突然自分がいなくなっても、現場ってのはゼンゼン困らない。
アメーバのように、誰かが誰かの代わりになって、なんとな~く組織ってのは継続してゆくもんだ。
やたらと「オレがいなきゃはじまらない」と考えているサラリーマン諸氏は多いようだが、80%ぐらいの人間は代替可能。
(有名な「20:80の法則」にのっとり)
誰もが、自分が「代替可能」だとは考えたくないんだよね。
プライドもあるし。
そこが問題!
自分は別に、その現場からいなくなってもゼンゼン問題ないんだ、と逆に考えることによって、楽になる。
中高年のサラリーマンの自殺も、減るだろう。
職場のストレスに「圧殺」されるヒトも減るだろうしリストラされて自殺するヒトも減る。
何が問題かって、なんか洗脳がかってるからね、「オンリーワン思想」みたいなものにね。
「ゆとり教育」の余波がオトナ社会にも拡がってるみたいな感じ。。
ビジネスにおいて、代替可能な人間を求めるフィールドは、たくさんある。そのへん、「クサいところにふた」をされてるんだよなあ。
でもね、代替可能なりにちゃんと、自分の仕事はしなきゃならないんだよ。それが大事。
で、もちろん、その職場にホントウに必要とされている人材もいるわけだが。。
(「キーマン」とでも呼ぼうか)
その人間がぽこっといなくなると、最初は「あれ? いなくとも大丈夫じゃん?」と思ってしまうのだが、職場におけるキーマンの欠損というのは、じわりじわりと効いてくる。
(多くのヒトは経験済であろう)
組織の「歯車」であればすぐに代替可能なのだが、歯車より上のレベルの人間がいなくなると、ぱっと見はパーツが欠けているわけではないので、困らない。
だが、結局制御系の性能がダウンしてしまうわけだから、全体に影響が出てくるんだよね。
キーマンがいなくなっても、結局組織はアメーバのように元に戻りはするのだが、中期的にみて組織の品質が下がる。それが、100%代替可能な存在と違うところ。100%代替可能とは、単なる部品交換と同じで、入れ替わっても組織の品質がまったく変化しないということ。
ここまではもののたとえであって、たとえがひとり歩きしてしまって僕の言いたいことから若干離れてしまったような気がする。
いくつか補足すると、
たとえば単調労働が求められる現場であっても、「キーマン」は存在する。単調労働の現場で働く人間のすべてが代替可能なわけではないということ。
次に、凡人であってもビジネス・シーンにおいては、(効果的かつ継続的な)努力によりキーマンとなれる。
世の中のほとんどの人間は凡人である。(誰もがプロ野球選手になれるわけではない)
ビジネス・シーンは才能がすべてではない。努力が報われるという点で、そして、いわゆる「才能」がいたるところでジャマになるという点で、ビジネス・シーンというのは素晴らしい。
なんだかうっすらと、ジャマだなあと感じるのは、「凡人の選民意識」みたいなもんでね。
職場において自他ともに認める「キーマン」となったときに、悪い意味での選民意識が芽生えてしまう。
それを、振り払いましょうよ、ということを僕は言いたいのだと思う。選民意識を振り払うことこそが「凡人であることを知る」ということに他ならない。
その選民意識は、組織の上層部にいいように利用される。
組織において、上へ駆け上がりたい、という野望を持っているのであれば、選民意識を持つのもよいのだけれど。。(それはそれで、すごくよいことだと思う)
世の中、そういう野望(そして、資質)をもったヒトたちばかりではない。
昨今局地的に取り上げられている「ハケン」ってのは、結局100%代替可能な人材なわけで。
元「25歳・ハケン社員」だった人間としては、昨今の問題については若干、気にはなっているのだが、書くと長くなりそうなので次回以降にゆずろう。
でも、僕の社会人人生は100%代替可能なところから始まっていて、未だに自分はそこから抜け切れていないからね。
ヘンな選民意識を刷り込まれなくてよかったような気がしないでもない。
「そこ」から這い上がろうという気持ちは、ものすごく強かったのだけれど、それはただ一点、「カネ」だけだったと思う。別に自分がオンリーワンになろうなんて、これっぽっちも考えてなくてさ、ただただ金銭的に上のレベルの生活をしたい、というそれだけのモチベーション。
「カネ」というモチベーションはけっこう、すがすがしいと思うのだが。。どうだろう?
「カネ」がすべてじゃない、とかカッコつけるよりは、ね。カネにガツガツしているのこそ凡人っぽくて、いいよね。
なんだかお屠蘇気分が抜けないのか、文章にしまりがないなあ。。たぶん続きます。