【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

セミ・プロフェッショナリズム(3) 「つきあい」

2009-10-11 06:21:21 | メルマガ移行
【my格言】
-勉強ができるから委員長に向いているとは限らない。仕事ができるからといってリーダタイプとは限らない。(20080529)

(格言と本文とはほぼ、関係ありません)

 
 
おつかれさまです、龍澤です。

 
 
「つきあい」というのがサラリーマンの必須スキルとして存在します。
つきあいの飲み、とかつきあいのだらだら残業とか、週末ゴルフとか。。

そういうありきたりなものばかりでなくて、自分の思想、立ち居地、ポリシーまでも曲げなければならないぐらいの「つきあい」が、サラリーマン社会ではいくらでもある。

それも含めての必須のスキルである。つまり、サラリーマンというのは会社のために、「つきあい」で、自分の思想、立ち居地、ポリシーまでも曲げることを厭わないという姿勢を要求されるということ。そしてその要求はよっぽどのことがないかぎり飲まなければならない。
(ムカシ、「仕事だったらなんでもできる!」とか「24時間戦えますか」とか、そういうコマーシャルがあったっけなァ。。)

 
なぜなら、サラリーマンは会社に「雇用」されているから。心も、身体も。。

成果主義の明確な失敗、欧米型雇用慣行の取り入れの失敗等の反動で、日本のサラリーマン社会は再び、社員を「まるごと」囲い込もうという方針に転換しつつあります。
「まるごと」というのは「ココロも、身体も」ということだ。会社と運命共同体にならなきゃいけない。

 
と、日本の社会がそういう方向に舵を切っているにも関わらず、雇用される側は会社と運命共同体になる覚悟などこれっぽっちも持っておらず、雇用する側も、社員およびその生活、家族含めまるごと抱え込もうという強い意志すら、ない。
労使双方に「覚悟」がない。そのためにいろいろな齟齬が発生してしまっており、結局どうなってるかというと日本という国の生産性が下がってるわけだ。。そこを外国につけこまれる。

日本が勝手に、世界の中で踊らされているだけ。
 
 
まァそういう「グローバルな」ハナシは実はどうでもいいのだけれど、僕個人でいえば会社に自分の精神も身体もまるごと抱え込まれてしまうのはなんとなくイヤだなあ、と思う。(それはムカシから)
かといって、企業組織の中でたとえば「組合」というかたちでハンパな反抗を続けるのもイマイチな感じ。

組織に立ち向かっても、その報復として窓際に追い込まれるのもキツそうだし、組織に忠誠を誓い中心となって働いて、組織のいいように操られてボロボロになってゆくのもキツそうだ。。
そしてその中間で、いい塩梅で仕事できる状態に自分を持ってゆく、というか、周りと調整して調整して、組織の中で自分のオリジナルな立ち居地を確立するそのプロセスが、ものすごく面倒くさそうだなあと思ってしまう。
なんでそこまで個人で組織と闘わなにゃならんのか、というのがよくわからない。

組織の中で安住するために会社に就職したのにも関わらず組織の中で常に闘わなければならないという矛盾。。 この矛盾とサラリーマンのヒトたちは常に向き合っている。

 
サラリーマンはそういうところに異常に時間をとられるから、疲弊しちゃって、全体として生産性が下がっちゃうんだろうなあ。上層部はそういうところからもっと社員を解放してあげればいいのに、と思うんだけど。

 
「面倒くさそう。。」と、僕は正直に思うね。でもそういう発言をすると「フリーは気楽でいいなあ、おい」とかイヤミをいわれて不愉快になるから、ふだんは黙ってるけど。。
サラリーマンのそういう「しがらみ」あるいは「つきあい」をこなしてる人間こそ(だけ)が「オトナ」であるというサラリーマン諸氏の間違ったプライドがね。。
社会全体ではただのKYなのですよ。組織の中では正しいのかもしれないけど。
 
前にも書いたけど、僕の場合は、サラリーマン諸氏からみるとお気楽極楽な人生を過ごしてると思われるかもしれないけれど、フリーということは組織というフィルタを通さずに直接「世の中」と向き合ってるわけです。
確定申告なんかがその典型だけれども。。
それは決して、「楽」ではないのだ。

 
会社組織の中に潜り込んで仕事させてもらって、組織にどっぷり浸からず、ハンパな立ち居地で状況を俯瞰しながらしみじみ思うのは、サラリーマンの受動的な「つきあい」というのは、サラリーマンにとっては必須スキルかもしれないけど「社会人」あるいは「ビジネスマン」にとっては決して必須ではないのだ、ということ。

それに対して僕は決して批判的ではない。特に同世代のサラリーマンには「つきあい」をがんばってほしいと思う。
「つきあい」はたまにツラいものだ。そしてサラリーマンはそもそもツラい職業であり気楽な商売では決してないのだ。

 
でも、僕のようなフリーの人間にも、「つきあい」を強要するサラリーマン諸氏がいるわけね。
なぜ強要されるかというと、僕はサラリーマンが集う現場に常駐しているからだ。常駐しているだけで「郷に従え」といわれる。
それがたまに、なんかイヤな感じがする。「オマエもこの苦しみを味わえ!」みたいなね。目線が上からだし。。

でも僕はすべて避けているわけではないのだ。たとえば飲み会とかは相当好きなほうだ。
僕が拒否反応を起こすのは、上述した、自分の思想や立ち居地やポリシーまでも脅かしかねない「つきあい」の強要である。

具体的には。。ひとつの例としては、その会社に常駐しているからという理由で、朝礼で社訓を読み上げなければならない、とかね。
社訓には、その会社に忠誠を誓いますみたいなことが書かれてるけど、なんで僕がそんなことを言わされなきゃならんの? とは思うけど。

あとは、家族を優先しようとする姿勢を、否定されるとかね。。 「ウチの社員には忠誠心があるから」といって外注にも忠誠心を強要するのは、おかしいわけで。
(そしてそもそも、忠誠心があるかどうかの尺度を、会社のために家族を犠牲にするか否かで測るのは、まったくもってナンセンスでしょ?)
 
特に管理職のヒトたちは、同じ現場で働く外注に対してまるで自分の部下であるかのように、うかつに「つきあい」を強要しないでほしいんだよね。

「いいじゃねーか、同じ現場で働く仲間なんだからよ!!」「カタいこというな」とそういうヒトたちは美辞麗句をいう。

でも僕らは、その会社から給料をもらってるわけでもなんでもない。
ただただ、たまたまその現場で働かせていただいているだけで、ロケーション的にそこにいるだけであって正規雇用されているわけじゃない。
いつでも切られる存在。。

そして、そこで勤怠を管理されているわけでもない。

 
ムカシは、「外注を、都合のいいときだけ社員と同じように扱わないでくれ」と主張していろいろいわれたり、現場に居ずらくなって去ることになったり、いろいろあったけど、最近は偽装請負だのなんだのウルサくなってきて、ロコツにはいわれなくなってきた。
少しずつ、良い方向には向かっている。でも、そのぶん暗に強要されることが多くなってきている。
 
もうそういう時代じゃないんだよ、ということ。もっとドライにいきましょうよみなさん。

  
。。しかも、そういう現場の飲み会なんてみんなワリカンだもんなー つまり、外注から会費ふんだくって自分らの飲みの資金を調達してるってことでしょ。

ワリカンでカネとられてさらに悪いことに、マネージャのグチ聞かされたり、「酔っていうわけじゃないけど、オマエは最初みたときキライだった!」といわれたり。。
まったくおもしろくない。

 
つまらない飲みにいくよりは家に帰って家族とふれあったり、あるいはジムにいったりスクールに通ったりするほうが、ビジネスマンとしては「クール」だ。

その会社に「雇用」されているのであればその会社の慣行、慣習、作法にどっぷり浸からなきゃならないと思うけど、そうでない非正規雇用であればアフターまで拘束されるすじあいはまったくない。

 
善意でどっぷり「つきあい」したところで、どうせいつかは切って切られるただの契約関係にすぎない。契約だけの、クールな、上っ面だけの関係であるはずなのに、同じ組織にいるからといってウェットな関係(まるで、これから何年も仕事をしてゆくパートナーであるかのように)を強要されるというのが極めて日本的ではある。
その「タテマエとホンネ」のところがね。「タテマエとホンネがあってあたりまえでしょ?」と開き直るあたりが。。

その、日本的な「タテマエとホンネ」によって、このギョーカイの生産性が上がるんだったらもろ手を挙げて賛成してもいいけどね、ゼッタイそうはなってないからね。