【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

現場に残るということ(2)

2010-03-14 06:31:00 | メルマガ移行
【my格言】
-あきらかに、主体的に動かねばならないところで受動的に動こうとするヤツがいるから、ムカつくんだ。(20081015)

(格言と本文とはほぼ、関係ありません) 

 
 
おつかれさまです、龍澤です。

 
さて、先週も少し書いたけど、このギョーカイの最底辺でシステムを下支えしてくれているヒトたち、たとえば夜勤のオペレータであったり、24時間保証のため、夜中もハード交換で緊急出動するCEの方であったり、あるいは、デスマーチに巻き込まれやすい「ひたすらPG」であったり。。

そういう業務に従事しているヒトたちの多くは、「下請けの下請け」である。あるいは、僕と同じようなフリーの人間(「最後の下請け」)であることも多い。

そして、そういうヒトたちの大部分は、キャリアパスのない、「先の見えない」若手や中堅だったりするのだが、そういうヒトたちをどう思うか?
歳を取るにしたがい、そういうヒトたちに対する「思い」がどう変化してゆくか?

 
僕は、「さっき 自問自答の末 結論した」(byガストロンジャー)のだが。。

若いうちはイケイケどんどんで、そういうヒトたちに対して「自分で切り拓け、自分ではい上がれやオラァ」って感じなんだけど、歳をとると少しずつ、そういう精神論だけで片付けられるハナシでもないんだよなあ、という思いに変わってゆく。

だからといってカンゼンに擁護派にまわったわけでもない。
たとえばよくマスコミに出てきていた「ハケン村」とやらで、現金手当を渡したとたんにトンズラするような「擬似無職」のヤツらをみていると、ふつーに腹が立ってくるし、そういう気持ちは変わらず持っている。

製造業とかのハケンはよくわからないのだけれど、このギョーカイの構造、ヒエラルキー(「カースト制度」?)というのは、なかなか強固であり、ここに組み込まれると容易に抜け出せないのだなあ、というのは、僕は当事者なのでよぉくわかる。

僕自身の考え方の変化としては、ここのカースト制度から抜け出すのは一旦あきらめて、制度を受け入れ、この場(そして、それを含めた人生)を楽しもうという気持ちになってきたように思う。

だから、今まさにこのカースト制度に組み込まれているヒトたちにも、そうすることをおすすめしている。

  
このギョーカイに属している、ということはつまり、働いてるということだ。
下層労働であろうがなかろうが、給料が安かろうが高かろうが、働いている。働いていればそれでいいじゃない、って思う。
少なくともニートだのフリーターだの、そういう類の人間に対しては胸を張れるはずだ。

 
そして、システムに携わっている要員は、上流だろうが下流だろうが最下層だろうが、システムを利用するユーザを助けている。役に立っているんだよ。間接的であっても。

でも、ユーザの感謝の声は全くといっていいほど聞こえてはこない。
それは、そういうものとして割り切るしかない。最底辺層というのは、いろいろな「声」が途中で遮断されて届かないか、あるいは伝言ゲームで真意がねじ曲げられて届く。そういうところだ。

 
僕は、かつて自分が経験してきただけに、深夜、僕らが寝ている時間に作業をこなしてくれるオペレータさんたちや、深夜に障害で呼び出される運用エンジニア、CEへ感謝の念を持っている。
その感謝の念というのは、たとえば局所的な「自分の担当しているシステムの運用担当者」に対してだけでなく、日本のそういうヒトたち全般に対して、持つことができる。

ムカシは、感謝の念なんてこれっぽっちも持っていなかった。
それはアタリマエなのだ、まさに当事者だったのだから。
 
僕の場合は、そういう底辺層のヒトたちへの思いの変化、変遷はけっこう複雑なものがあったけど。。
つまりそれは、自分自身を振り返ることでもあるからね。イヤでも自分のおかれている現実と向きあわなければならないから。

ムカシは誰よりも強く、最底辺層からの脱却を望んでいたし、それなりの葛藤の後に「ああ、ここからは逃れられないのだ」という諦観を感じながら。。
で、今に至る。

 
 
前々回書いたのは、ギョーカイ最底辺層の労働に従事するヒトたちへの「感謝の念」を表明すると、そういうヒトたちの「肩を持っている」というふうに曲解する輩が存在するということだ。
それが僕には「?」なのであった。

  
マネージメント層とか、「起業して社長」とかそういう方面に「上ろう」とするヒトたちには、そういう層の人間が見えなくなる。
というか、見えなくなる立場になりたいがために、「高いところへ上る」のだ。

底辺層の状況を直視したままだと、情が入ったりなんだりで、上流の裁定が下せない、と。。
ホントにそうかどうかはおいといて(たぶん違うと思うけど)、そう思うからこそ「上」に上がり、下層が何も見えない状況で、何もかも机の上と会議室で考えてしまうようになる。
下層の人間は、人間ですらなく「1.0人月」という名の「数字」として扱われ続ける。
 
 
不思議なのは、かつて現場にどっぷり浸かっていた人間が現場のことをきれいさっぱり忘れてしまい、あっという間に「現場感」をなくしてしまうという事実。。

でも実は、忘れてしまうのではなくて、単に思い出したくないだけなのだろう。

 
前々回の投稿では、そもそも若手の頃から「現場」の経験がないヒトたちに対する違和感も書いたような気がするんだけど。。

若い頃現場で死ぬほど揉まれたにも関わらず、上に上がってその経験を一切活かさないのであれば、そもそも現場を知らないのと同じじゃん、と思うなあ。。
過去の経験が一切、ムダになる。

 
現場のことを忘れてしまったら、自分が現場にいたとしたらどうか? 自分ならやれる(やれた)か? その方針・設計は机上の空論になっていないか? 等を検証する術をなくしてしまう。

そして、一方では歳をとるにつれて謙虚な姿勢をなくしてしまう。柔軟性がなくなってゆく。悪い意味での頑固オヤジになってゆく。

それ(加齢による柔軟性の喪失)も、このギョーカイにおいては相当な問題であると感じている。
前にも書いたけど、このギョーカイにおいては「頑固な職人気質」なんて、ジャマになるだけだから。
 
 
 
僕がここ数年、感じているのは、管理職でも経営層でも社長でもいいんだけど、上、つまり「次のステージ」へ上るかどうかは「推挙」で決めるべきだと思うんだよねえ。。

上へ上がる野望が強い人間が自己推薦で上に行くのではなく。
そうすれば、現場感を失った管理職が増殖するのを防げるような気がしてならない。

野望をね、否定はしないんだけど、その野望の根拠がさ、上述したような「最底辺から目を背けられるから(上に行きたい)」じゃあねえ。。
そういう人間は確かに、「推挙」はされないだろうなあ。だから、自己推薦で上ってゆくしかない。

政治家もそうなんだよねぇ。。ゼッタイに推挙されないような人材がどんどん国会に「上って」いく。。
僕はそういう人材には投票しないけど、なぜかどんどん当選する。

 
かつての「年功序列」はもしかしたら、このギョーカイにとってはもっとよくないかもしれないけどね。
エスカレータ式に次のステージに上れるのであれば、次のステージ上にいる人間も玉石混交となるのは当然。
でもそれではダメだと思う、今の時代は。組織がぎくしゃくしてくる。

次のステージに上るのは、それにふさわしいヒトのみであってほしいものだ。

 
コミュニケーションの問題がここ数年かまびすしくなってきているけど、根本的な問題はその「上ったヒトたち」、つまりマネージメントレベルの質の低下だからね。。

上の世代は、若い世代のコミュニケーション能力を問題にするけど、実はそれは大した問題じゃないから。
自分たちのレベルの低さを棚に上げるために若い世代に問題をすりかえようとしているだけだからね。