暮らしの手帖に書いてあった、「職人」がやがて「作家性」を持つようになるというハナシが引っかかっている。
つまり、それなりの数をルーティンで「生産」してゆく職人が減った、と。
それよりも、ひとつひとつの完成品を「作品」に仕立て、法外な値段にして売る。それを「美術品」という位置づけに(無理やり)してしまえば、値段の根拠というのは市場の「神の見えざる手」を離れ、まったく意味がなくなるから。
しかも、「作品」に仕立て上げた途端に買い始めるヤツもいる。「生産」されているときには見向きもしないクセに。。
職人が「生産」したものが、廉価で安定して売れなくなってきたということなのだろう。
まァ、そりゃそうだよね。廉価で売るには薄利多売でいかなくちゃならないんだから。
手作業で「多売」はムズカしい。
職人というのは、モノをつくり上げて、それを売る。
アタリマエのハナシだ。
でもやっぱりさ、たとえば本とか、ソフトウェアみたいに、一度苦労して苦労してヒネり出したモノを、あとはどんどんキカイにコピーさせて売ってゆくのが、いいよね。
ショーバイを考えるのであれば。
「コピーできる職人の品」か。。
ということはやっぱ「デザイン」方面にいかざるをえないということかな。
「デザイン」(これをカッコつけて「意匠」とのたまうヒトたちもいるが)だけ提供して、あとはキカイに大量生産してもらう、と。
職人はキツいよね。最初っから最後まですべて手作業でつくらなければならないのであれば。
そのペースは、このイソガしい現代社会では、遅すぎるのだろう。
だからこそ、職人側でも、いかにも「てやんでえべらぼうめ」的な、頑固な(そして、まったく融通のきかない)職人気質から脱して、柔軟にキカイと手を組む姿勢が求められている。
ところで。。
たとえばヒトが、1ケ3万のモノを一日でつくれて、それが必ず買い手がつく、というのであれば、生きてゆけそうだ。
300ケつくれば年収900万にもなる。
必ず売れるのであれば生産調整もいらない。とにかく、作って作って、つくりまくればよい。
死ぬ気で。
作れば必ず売れるっていう保証があるのであれば、そりゃ死ぬ気で作るだろうよ。寝る間も寸暇も惜しんで。
その「モノ」っていうのは、3万で値がつきさえすればなんでもよいのだ。「作品」だろうが工業製品だろうが。
でも。。
その、1ケ3万という値付けも、たとえばその品が老後になったら作れない、若いうちしか作れないというのであれば、もっともっと高い値段にして、老後リタイヤしたときの貯蓄にまわさなければならない。
でも、あんまり高い値段だとそもそも売れなくなる。
適正な市場価格というのは、常に存在する。
だからこそ、作り出すモノたちに「作家性」を持たせて「作品」を偽装し、つくる側は値段を不当に(?)吊り上げなくちゃならないんだろうなあ。。
そのために、広告や口コミを利用して、あたかも希少価値があるようにみせかけ、そのモノに対する飢餓感を煽って値段を吊り上げるなどの施策が必要になってくる。
価格が吊り上がれば、たとえば1ケ10万になれば、それを3日でつくればよい、ということになり、暮らしにゆとりが生まれる。
かもしれないけれど、価格が10万になれば売れない可能性が出てくる。身体が、3日に1ケしか作れないスローペースになったところでその商品が売れなくなると、スパイラルでドツボにハマってゆきそうだ。
3日に1ケのペースでしか作れなくなり、それが10万から3万へ(本来の価値のとおり)暴落したら、年収は400万ぐらいになる。
。。このようなことは誰でも考えるのだろうけど。。僕はホント、経済オンチなので、基本に立ち戻って考えてみないと、腹落ちしないのだ。
僕ら(システム屋)は、3万の価値のあるものを毎日毎日、作り出すことができるのだろうか?
独りではムリなのであれば、たとえば10人でかかれば30万の品を毎日、生み出すことができるのだろうか?
僕の価値判断の基準は、そこにおくことにしよう。1日3万。。
3万/日の価値のあるものを作り出すこと自体は、もしかしたら容易にできるのかもしれないけれど、それを100%取っ払えるか(中間でボられずに)というのが、問題になってくる。
でもそのハナシは、本題から外れるので、またいずれ。。
僕らは、「サービス」なり「ソリューション」なり、そういった物体じゃないものを、独りではなくチーム単位で生み出している。それはもしかしたら「ホワイトカラー」の稼動であるともいえるのかもしれない。
それは、1日1ケという単位ではなくて、プロジェクトの終了で何千万、何億とかそういう単位だったりする。
(運用だったら月あたりいくらかもしれないけど)
そして、そのサービスなりソリューションというのは、その場で売って買っておしまい、というわけではない。その後に付加価値を生み出し、継続的にカネが入ってくることを期待できるからこそ、客はそれにカネを払う。
そういう付加価値を生み出すために僕らは、月いくらとかいう単位で雇われているのだ。
末端の作業者として。(「ホワイトカラー的ブルーカラー」)
だから、僕らはその付加価値に見合うだけの仕事をしているのだろうか?
ということは常に考えておかなければならない。
。。。?
いや、違うなあ。この帰結は僕らしくない。
雇われた、つまり金銭的に双方合意して契約したのであれば、あとは、その契約内容に沿った仕事の範疇で、自身が生産性を上げる努力をするのみである。
生産性を上げるとはつまり、仕事を通じて成長するということでもある。
つまり、その合意した金額にみあった仕事を自分はできているか? を考えながら仕事する必要は、ない。「まったく」ないと言い切ってもいいぐらいだ。
役割期待のとおりに仕事しているのだとすると、それはカンゼンにオーバーワークである。
なぜならば我々は中間でボられているから。
本来単価に見合う仕事をしていたら、我々は疲弊するのみである。
仕事を得たのであれば、その仕事でいかに自分が成長できるか? をやや利己的に考えていればよい。
それを常に主体的に考えていれば、自然、雇用主の期待値にも迫ってゆくはずだから、心配することはない。
ただし、自分がその仕事で成長を実感していても、まったく雇用主の評価がついてこないのであれば、あきらめてすぱっと辞めるべきである。
そんな仕事をしていてもしょうがない。自分も苦しむし、相手にも迷惑がかかる。
自分が成長するのと比例して雇用主の期待にも応えてゆけるような仕事は、必ず見つかる。
ただし、見つける努力をすれば、のハナシだけど。
つまり、それなりの数をルーティンで「生産」してゆく職人が減った、と。
それよりも、ひとつひとつの完成品を「作品」に仕立て、法外な値段にして売る。それを「美術品」という位置づけに(無理やり)してしまえば、値段の根拠というのは市場の「神の見えざる手」を離れ、まったく意味がなくなるから。
しかも、「作品」に仕立て上げた途端に買い始めるヤツもいる。「生産」されているときには見向きもしないクセに。。
職人が「生産」したものが、廉価で安定して売れなくなってきたということなのだろう。
まァ、そりゃそうだよね。廉価で売るには薄利多売でいかなくちゃならないんだから。
手作業で「多売」はムズカしい。
職人というのは、モノをつくり上げて、それを売る。
アタリマエのハナシだ。
でもやっぱりさ、たとえば本とか、ソフトウェアみたいに、一度苦労して苦労してヒネり出したモノを、あとはどんどんキカイにコピーさせて売ってゆくのが、いいよね。
ショーバイを考えるのであれば。
「コピーできる職人の品」か。。
ということはやっぱ「デザイン」方面にいかざるをえないということかな。
「デザイン」(これをカッコつけて「意匠」とのたまうヒトたちもいるが)だけ提供して、あとはキカイに大量生産してもらう、と。
職人はキツいよね。最初っから最後まですべて手作業でつくらなければならないのであれば。
そのペースは、このイソガしい現代社会では、遅すぎるのだろう。
だからこそ、職人側でも、いかにも「てやんでえべらぼうめ」的な、頑固な(そして、まったく融通のきかない)職人気質から脱して、柔軟にキカイと手を組む姿勢が求められている。
ところで。。
たとえばヒトが、1ケ3万のモノを一日でつくれて、それが必ず買い手がつく、というのであれば、生きてゆけそうだ。
300ケつくれば年収900万にもなる。
必ず売れるのであれば生産調整もいらない。とにかく、作って作って、つくりまくればよい。
死ぬ気で。
作れば必ず売れるっていう保証があるのであれば、そりゃ死ぬ気で作るだろうよ。寝る間も寸暇も惜しんで。
その「モノ」っていうのは、3万で値がつきさえすればなんでもよいのだ。「作品」だろうが工業製品だろうが。
でも。。
その、1ケ3万という値付けも、たとえばその品が老後になったら作れない、若いうちしか作れないというのであれば、もっともっと高い値段にして、老後リタイヤしたときの貯蓄にまわさなければならない。
でも、あんまり高い値段だとそもそも売れなくなる。
適正な市場価格というのは、常に存在する。
だからこそ、作り出すモノたちに「作家性」を持たせて「作品」を偽装し、つくる側は値段を不当に(?)吊り上げなくちゃならないんだろうなあ。。
そのために、広告や口コミを利用して、あたかも希少価値があるようにみせかけ、そのモノに対する飢餓感を煽って値段を吊り上げるなどの施策が必要になってくる。
価格が吊り上がれば、たとえば1ケ10万になれば、それを3日でつくればよい、ということになり、暮らしにゆとりが生まれる。
かもしれないけれど、価格が10万になれば売れない可能性が出てくる。身体が、3日に1ケしか作れないスローペースになったところでその商品が売れなくなると、スパイラルでドツボにハマってゆきそうだ。
3日に1ケのペースでしか作れなくなり、それが10万から3万へ(本来の価値のとおり)暴落したら、年収は400万ぐらいになる。
。。このようなことは誰でも考えるのだろうけど。。僕はホント、経済オンチなので、基本に立ち戻って考えてみないと、腹落ちしないのだ。
僕ら(システム屋)は、3万の価値のあるものを毎日毎日、作り出すことができるのだろうか?
独りではムリなのであれば、たとえば10人でかかれば30万の品を毎日、生み出すことができるのだろうか?
僕の価値判断の基準は、そこにおくことにしよう。1日3万。。
3万/日の価値のあるものを作り出すこと自体は、もしかしたら容易にできるのかもしれないけれど、それを100%取っ払えるか(中間でボられずに)というのが、問題になってくる。
でもそのハナシは、本題から外れるので、またいずれ。。
僕らは、「サービス」なり「ソリューション」なり、そういった物体じゃないものを、独りではなくチーム単位で生み出している。それはもしかしたら「ホワイトカラー」の稼動であるともいえるのかもしれない。
それは、1日1ケという単位ではなくて、プロジェクトの終了で何千万、何億とかそういう単位だったりする。
(運用だったら月あたりいくらかもしれないけど)
そして、そのサービスなりソリューションというのは、その場で売って買っておしまい、というわけではない。その後に付加価値を生み出し、継続的にカネが入ってくることを期待できるからこそ、客はそれにカネを払う。
そういう付加価値を生み出すために僕らは、月いくらとかいう単位で雇われているのだ。
末端の作業者として。(「ホワイトカラー的ブルーカラー」)
だから、僕らはその付加価値に見合うだけの仕事をしているのだろうか?
ということは常に考えておかなければならない。
。。。?
いや、違うなあ。この帰結は僕らしくない。
雇われた、つまり金銭的に双方合意して契約したのであれば、あとは、その契約内容に沿った仕事の範疇で、自身が生産性を上げる努力をするのみである。
生産性を上げるとはつまり、仕事を通じて成長するということでもある。
つまり、その合意した金額にみあった仕事を自分はできているか? を考えながら仕事する必要は、ない。「まったく」ないと言い切ってもいいぐらいだ。
役割期待のとおりに仕事しているのだとすると、それはカンゼンにオーバーワークである。
なぜならば我々は中間でボられているから。
本来単価に見合う仕事をしていたら、我々は疲弊するのみである。
仕事を得たのであれば、その仕事でいかに自分が成長できるか? をやや利己的に考えていればよい。
それを常に主体的に考えていれば、自然、雇用主の期待値にも迫ってゆくはずだから、心配することはない。
ただし、自分がその仕事で成長を実感していても、まったく雇用主の評価がついてこないのであれば、あきらめてすぱっと辞めるべきである。
そんな仕事をしていてもしょうがない。自分も苦しむし、相手にも迷惑がかかる。
自分が成長するのと比例して雇用主の期待にも応えてゆけるような仕事は、必ず見つかる。
ただし、見つける努力をすれば、のハナシだけど。