運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

緑のしあわせ

2013年05月28日 01時07分46秒 | Weblog
毎日がしあわせでならない。
現実的な?理由があるわけではない。

とにかく、きれいなのだもの。
空も風も、緑も、どこもかしこもイキイキと。
たくさんの種類の緑色と
風に乗って満ちてくる草いきれの香り。。。

朝は鳥達のそれぞれの鳴き声が
ちゃんと調和になっていき
やがて
シンとした空気がお陽さまと共に暖まってゆく

ああ、これ以上、何が要るかしら。
これぞ至福。
裸足で柴や草を踏みしめて
大地のエネルギーを受け止めながら
なんちゃってヨガのあとには
あわのうたを歌ったり舞ってみたり
植えてほどない苗たちや
以前から一緒の観葉植物たちや
誰一人忘れないよう水をあげて

それから玄関はじめ水拭きをして
神棚や仏壇にご挨拶をして

朝は自分なりの儀式がたくさんあるので
すぐに一時間くらい経ってしまう。

そして、はじまる一日の中で
ほんの少しでも
風の通るような、光を感じるような
そんな場所で、じっくり
呼吸をして、ぼーっとする時間が持てたなら

それだけで至福。

5月は、世界の美しさを
毎日味わう月。

ロバート・ネイサンの
「ジェニーの肖像」をふっと思い出したりしながら


世界を味わう。



青のイースター 

2013年04月07日 23時58分13秒 | Weblog
青のイースター 

懐かしい東久留米の道を、子供のピアノを発表会をしたホール、
交流のあった学芸大付属養護学校の畑のある庭、
バザーや輪になってしたゲーム
風が吹きぬけ、散りかけた桜や春の花の香りに、
甦らせる想いを抱きながら黒目川を渡る・・・と、
知らなかった雑木林には、活ける光が踊っていました。

こんなところに、あることも知らなかったグレゴリオの家。
今日はそこで、知人の朗読会がありました。

思いがけなく出合ったマリア様と
青銅の鐘が
木立と住宅の間に建っていました。
八重桜の下でほほえむマリア様。。。ああ、ご存知ですよね。
精魂傾けたあの時間は無駄ではなく、
たとえ、いまは、知らないところで
どんな偽りの下に葬られてはいても、
確実に成長して、あの子を育み
やがて佳きものとなっていますよね。

自然と春の光は、どんなときにも本当のものを復活させます。
そんなことを思い出させてくれる
イースター
フランチェスコのと同じでもある光、青いエネルギーが
なつかしいくらい満ちた素晴らしいホールでした。
春のイースター。

何もかも承知のうえで
なお、引き受けられたキリストが復活するから尊いのでなく
私たち一人ひとりの中で
そうした愛の想い、すべて同一ということの記憶が
一人ひとりの中で復活することが
ほんとうの復活。

3月11日14時の銀座

2013年03月11日 23時13分38秒 | Weblog
目前に迫ってきた伊勢神宮でのご奉納舞のお稽古と
仕事に明け暮れている。

どうしても銀座に行かなければならない用事を昨年から持ち越したまま。
本番前に出かけられる時間がポコッと空いた。。。のが本日。
3月11日だった。

けれど、抵抗があった。
だって、2年前のあの、3月11日の地震に遭遇したのが
はからずも、銀座だったから。
改装中の歌舞伎座の前を通っているとき
大学を卒業してすぐの仕事のときの同僚とバッタリ!合い、
10分お茶を飲みましょう、と入ったカフェで大揺れが始まった。
そのまま、ビルの外に飛び出し
まわるように大きく沿って揺れる高層ビルを
避難して降りたビジネスマン達と見つめていた

そのそばを、狂ったように
鳩なのかカラスなのか
大きな鳥達がなきさけびながらぐるぐると上空をまわり飛んで
ああ、とうとう、やってきてしまった
そう思いながら胸の鼓動を抑えていた

・・・あの記憶が、重なる場所に
よりによって今日、ほぼ同じ時間に行くことになることへのためらい

どこで祈ろうか。。。そう思っていたのに、銀座か。。。と。

けれど、道中、ふと、
元に返る、じゃないけれど
これから、あそこに戻ったら
何か、時空間にひずみができていただけで
ワープのあとのように
それからあとの2年間、が、全部なかったことになったらどんなだろうと思った。

もし、もし、
あの大震災が無かったら、私たちは、日本は、世界はどうだったろうか
何事もなく、良かっただけだろうか
いまだって、まだまだ不甲斐なく情けないばかりの私たちで
復興だって全然できていなくて
山の声も杜の声も、木々の声も草の声もいまだに聴くこともしないし
それなのに、銀座の町では、何もかも忘れて
ランチや買い物に興じているような人だってたくさん見かけるし
書店には、相変わらず
運がよくなりたい、成功したいなんて
個人の思いばかりが溢れた啓発本ばっかりが並んでいる
それでも
あれだけの方々が、私たちみんなの責任で
いまはアチラ側から、私たちのめざめと気づきを祈って願ってくれることになってしまったけれど
あのことがなかったら
わたしたちは、もっともっとひどくって
おごりたかぶり、無神経なまま
振り返ることなく走り続けて
東京なんて、そして日本ごと、壊滅していたかもしれないのではないのだろうか

鎮魂。。なんて、私たちごときがさせていただくなんて不遜だ
あちらの方たちのほうが、ずっとずっと大きな視点で
わたしたちを、ゆるし、見守ってくださっているのかもしれないじゃやないか。

だから、今日は、感謝の祈りだ。
ありがとう、ありがとうございます。
私たちは、ただ、ただ、生かされてここにいます。
空をありがとうございます。
太陽をありがとうございます。
呼吸できること
この光を見れていること事体がどんなに
長い宇宙の中で稀有な一刻、一刻なのだろうかと

銀座を離れて黙祷をしたあと
赤坂御門の中の楠の木や
枝越しに見える太陽の光に
ただただありがとうと
見えるものにも見えないものにも
泣きたいような感謝を、表明したかった

17日に、伊勢の勾玉池の上で
舞わせていただくのも
ただただ、その表明なんだとあらためて
身がひきしまる思いだった。
生かされていただいていることへの感謝を
そう、ただ、ただ、いっさい、ありがたいと虚心に
たまたま、この身体をパイプに使っていただいて
させていただくだけなんだと
偶然にしても、その日、その場所で
使っていただくことになってしまった足さんや腕さん。。
どうぞどうぞよろしくお願いいたします。






原点回帰

2013年02月22日 00時23分40秒 | Weblog
18年前、渋谷のタワーレコードの3階で、クラッシックのCDを探していたとき、ひょいと頭を上げたら、書棚にこの本があった。
タイトルに魅かれて手にしたら、日頃、漠然と感じても、決して言葉では説明できないと思っていたことが、見事に言葉で表されていた。
。。。いったい、これを書いた人は何者???
龍村仁・・・初めて知る名前だった。
それが、『地球交響曲』との縁の始まりとなり、人生の不思議な回り方と、パラレルして今に至っている。

 何度も何度も読んだはずなのに、今日、読み返して、あらためて発見した。
あらまあ、いま「あわのうた」とか、ホツマとか、古代の日本の叡智を復興したいと夢中になっている、その叡智の世界の根幹のところの本質は、このとき、ここに書いてあったことと、なあんだ、同じだ。
宇宙の外から地球を見て、まったくの静寂の中からの体験をした宇宙飛行士が感じ取ったことや、すべての存在が同じ原子からできていることや、肉体が長い長いスパンの譲り物であることや、古代の日本人もブッシュマンも、象もクジラも、みんな同じことを知っていたということなのだ。


それにしても、そのことを、このように的確に文章にしていた、元ボスに、あらためて舌を巻くというか、レスペクトの念をふつふつと沸かせた。
なぜだか、ラビ・シャンカールが、グルについて語るシーンが浮かんできた。

グルに、人生で出会えることは最上の幸せのひとつだとしみじみ、ありがたく思った。
7は西洋では完成の数字というけれど、
神代の日本では、とほかみえひため・・・の八人の王子にあるように、八こそが、大事な数。
いま、この大きなシフトのときに、この方がどんなものを私たちに見せてくれるのか。。やはり、第八番をぜひ作っていただきたいと、いまこそ必要と、大いなるものに切に願う。

輪を閉じるということ

2013年02月17日 01時20分15秒 | Weblog
 〈真実の人〉族は、ひとつひとつの経験の輪を閉じるのよ。ミュータントのように、経験の端っこを そのままにしておかないの。ー『ミュータント・メッセージ』
 

 見覚えのある、天使の絵のクリアファイルがでてきた。
 いったい何を入れていたのだっけ。。
 そう、取り出してみたら、昔繰り返し読んで、『ミュータント・メッセージ』のコピーの一部と、
 一昨年、アルバムがグラミー賞をとった、ロス在住のゆきこからの当時(??10年くらい)前の手 紙だった。
 人生の大変化のあと、一番大変な時期に好きだった音楽をやっていこうと決めたばかりの彼女が、  「でもまだ、人生半分残ってるから、前半はつらいこともたくさんあったけれど、後半はもっと自分 を喜ばせてあげる生き方を選びました」と書いている。そして、その音楽で、ちゃんと思いを実現し たんだなあ  と、しみじみ嬉しく読み返した。
 
 両方とも、今のこの、2013年の新年に、飛び出てきてくれたなんてちょっと素敵。

 今年になってから、何回も雪が降って、そのたびに、世界が降りあらたまるように、昨年からますま
 す、雪解けのように、ゲームの終わりのように、いろんなことが表面に出てきたり、これまで曖昧だ ったものがはっきりしてきて、さあ、まだのことがあったら、いまのうちに早くやっておくんだよ、 とでもいわんばかりに、誰もが、自分の立ち位置ややることに向かわされている。

 鉄棒をしていた子も、お絵かきをしていた子も、おやつを食べていた子も、友達と喧嘩をしていた子 も、積み木を積み上げていた子も、
 『はい、時間よー』と声をかけられたら、途中のものもやりかけのことも放り出して
 集合しなくちゃならないときがいつやってくるかわからないから
 できるだけ、閉じておける輪はちゃんと閉じる、いま、そんな天のとき☆