ケイトウがまるで赤い炎のように咲いています。秋を感じさせますよね。奥に咲いて
いる白い花は彼岸花です。そして手前に咲いているのは秋咲きのツツジです。秋咲き
のツツジを日南で見るのは珍しい事です。ケイトウは秋の季語で、よく俳句にも出て
きますが、特に有名なのが正岡子規の
『鶏頭の十四五本もありぬべし』
という句ですね。この句は1900年9月に子規庵で行われた句会で出された句なのですが、
のちにこの句が秀作なのか駄作なのかの大論争が行われたのです。「鶏頭論争」とも
言われています。詳しくはここをクリック!。
【撮影日】2020/09/18 14:05:17.76
Nikon D300 レンズ:VR 70-300mm f/4.5-5.6G
焦点距離:100mm f/4.5 1/1000秒
日南はここ2週間くらいは雨や曇りばかりで、からっと晴れる「秋晴れの日」がなかなか
やってきません。でも明後日(9/20以降)くらいからは秋晴れの予報になっていますから
ちょっと楽しみにしています。お彼岸になりましたね。自宅の庭や家の前の堤防の土手に
は、さっそく彼岸花が咲き始めました。本当に秋のお彼岸の時期になると、咲く時期が
わかっているかのように彼岸花が咲き始めます。凄いですよね。
9月1日に日南市の各家庭に配布される回覧板に、私を紹介する市の会報が掲載されました。
簡単に言うと、日南シルバー人材センターがこの秋からIT事業を始めるという記事で、私が
これまで携わってきた仕事の中身と、これから日南市で始めるIT関連事業を紹介した会報
でした。いやはや、これがまた反響が大きかったんです。友人、知人、行きつけのラーメン
屋さんからも「見ましたよ。日南にはIT関連事業に詳しい人がいないから、これからきっと
ひっぱりダコですよ。」と、みんなが言ってきます。1週間程度で各家庭に回覧板が行きわたり
はじめると、早速問い合わせの電話がシルバー人材センターにかかってきました。中には、
日南警察署や日南市立図書館、民間企業からも数件問い合わせがありました。どんな問い合わ
せ内容か詳しい事はここでは言えないのですが「こんな事をやりたいが、具体的に一度相談に
のってほしい。」という内容でした。そして「今後もIT関連事業について、連携をとっていき
たい」とお願いされました。ありがたい事です。シルバー人材センターにかかってくる電話は
やはり法人からよりも個人からの電話の方が多くて、そのほとんどが、「Windows10での操作方法
がよくわからない」「パソコンが遅い。」「プリンターがうまく接続できない」「同じエラーが
いつも出てくる。」「古いパソコンから新しいパソコンへのデータ移行の仕方がよくわからない」
といった比較的簡単なトラブルばかりでした。今年の1月にマイクロソフトが古いOSである
Windows7のサポート終了したのが影響しているようで、最新OSであるWindows10についての
問い合わせが多いようです。電話があったお客様には、すぐに自宅にお伺いして、すべて解決
できました。難解な相談事がなくて、ちょっとホッとしています。あるお宅では私の事を「先生。
先生。」と呼んでくる方もいました。私は笑いながら「その先生はやめてくださいね(笑)。
照れますから!。」と言うと、「いやずっと困っていた事が、こんなに簡単に直せるなんて、
やっぱりSさんは先生です。」と真顔で言われます。本当に気持ちがありがたいですよね。
相談者はやはり高齢者の方が多くて、中には90歳の方もいて、驚きましたよ。パソコンやスマホ
の簡単で割安な相談先が日南にできて本当に良かった、と言う声を聞くと、この事業を始めて
本当に良かったなと思います。これからもたくさん勉強して、みなさんのお役にたてるように
頑張ります。
さて今日のお薦めの曲は長淵剛の「Close your eyes」です。映画『男たちの大和 YAMATO』の
主題歌にもなった曲です。歌の背景に流れる映像は鹿児島の知覧から飛び立った特攻隊と特攻の母
と呼ばれた特攻隊員が利用していた軍事食堂のおばさんだった鳥濱トメさんの写真です。
特攻おばさん「鳥濱トメさん」の話は工藤雪枝『特高のレクイエム』で下記のように紹介されて
います。
【特攻おばさん】
毎日のように特攻出撃が行われると、知覧基地への空襲も頻繁に起こるようになった。
礼子さんは、そんな中でも特攻隊員のための奉仕を続けていたが、毎日、娘が無事帰って
くるかと気をもみながら待っていたのが、母親の鳥浜とめさんだった。軍用トラックにの
せられて、軍歌を唄いながらなでしこ部隊は町に帰ってくる。娘達が唄う軍歌が聞こえる
と「ああ、今日も娘が無事帰ってきた」と、とめさんはほっと胸をなで下ろした。同時に、
娘は戦地にいるわけでもないのに、こんなに心配なのだから、特攻隊員の御両親や御家族
はいったいどんな心境なのだろうかと、いたたまれない思いに包まれた。
とめさんは、町で富屋食堂という軍用食堂を経営していたので、特攻のことももちろん知
っていた。家族から離れて死の任務につく特攻隊員達はいかばかりか、お母さんが恋しい
だろうと考え、少しでも、知覧という前線基地の町で家庭のぬくもりを隊員達に感じても
らいたいと切望していた。そんな心根の優しいとめさんのことを多くの隊員達は母のよう
に慕った。いつからか「特攻おばさん」と呼ばれたとめさんの存在は、戦後になって全国
的に知れ渡ることとなる。富屋食堂は、そんな家庭的な雰囲気を求める特攻隊員達のたまり
場となった。
富屋食堂は、軍の指定食堂でもあったので、配給以外の食糧や酒などの割り当てもあった。
しかし、一人一人の隊員に「あなたは何が食べたいの」と聞いてまわり、隊員達のそれぞれ
の好みに応じて「しいたけのお吸い物」や「おはぎ」といったものをこしらえていた。軍用
食堂とはいえ、配給分だけではとてもまかなえるものではなかった。娘の礼子さんは、日に
日に、無類の着物好きだった母のタンスから、着物がなくなっていくことに気づいていた。
とめさんは、自分の大切な衣料を物々交換して、農家から食料を工面してもらっていたのだ
った。
戦争が終わる頃になると、あれほど居間のタンスを占領していたとめさんの着物はことごと
くなくなっていた。昭和二十年当時、四十代初めだったとめさんにとっては、まだ年若い特
攻隊員は自分の子供のように感じられた。童顔だったため「坊や」というあだ名で呼ばれて
いた河井秀男伍長は当時二十歳。河井伍長の実の母親は、事情があって河井伍長と生き別れ
ていた。そして今、実の母親の知らないところで、息子は永遠に別れを告げようとしている。
何とかして、実の母親に息子の最期の様子を知らせてあげたいと思った。
また河井伍長も「おばちゃん、俺が征ったら、俺の実の母親に一言報せてやってくれよ」と
母親の住所を残していった。河井伍長は昭和二十年六月八日、出撃、戦死した。
知覧から特攻隊の出撃があるときには、必ず飛行場まで見送りにいっていたとめさんは、
河井伍長の出撃の後、泣きながら「坊や」の母親に手紙を書いた。
秀男さんのほんとうの母上様へ
秀男さんの出撃をお知らせしてあげます
六月八日午前八時でしたからよろこんでください。
元気で敵艦に突入されましたから安心下さい。
世話致してやりましたから
私も子供の如く、坊や、坊やと毎ばん私を母の如くあまえて
思ふままにして、淋しいことは一つもなくこのような手紙を
やりました::・。
書いたのは、河井伍長の母親にだけではなかった。自分の子供の最期の様子を知りたかろうと
、せっせと遺族の方々に手紙を出し続けた。富屋食堂は、食堂であって旅館ではなかったが、
隊員達は、家庭での風呂が懐かしいだろうと考え、自宅の風呂まで開放して、いつでも好きな
ときに入れるようにした。隊員達を自分の子供のように思っていたとめさんは、ときどき隊員
達の背中を流してあげたりもした。
第四人振武隊の中島豊蔵軍曹は、軍用トラックが富屋食堂についた時、うれしさのあまり、あ
わてて飛び降りるや左腕をくじいてしまった。彼は、手が動かせないので基地の中の風呂に入れ
ない。さっそくとめさんは、風呂を用意して勧めた。中島軍曹の背中を流しながら、とめさんは
尋ねた。
「中島さん、出撃はいつでごわすか。」
「あしたにも命令がでるかもわかりませんよ」。
「そげな手じゃ、操縦もできもはんどがな、手がゆなって(よくなって)から出撃しゃんせ」
と諭しても、
「おばさん、日本が勝つためには、自分が一刻もはやく行かねばならんのです」
と中島軍曹は答えた。その一言が、心に触れた。涙が流れてくるのを止めることができなかった。
「おばさん、泣いているのか」中島軍曹の心配そうな問いかけに、思わず、お腹が痛いの
だと嘘をついた。
「腹が痛い?涙がでるほど痛むのか、座敷に戻って寝てくれよ 」そんないたわりの言葉を聞いて、
いっそう涙が流れるのだった。
中島箪曹は 、翌日六月三日、出撃して、還らぬ人となった。不自由な手を、自転車のチューブ
をつかつて無理矢理操縦梓に縛り付け、自分の手と操縦梓とが一体となって動くようにして出撃
した。闘魂の出撃だった。その様子を後で整備兵から聞き、とめさんは、食堂のかげでまた泣い
たのだった。そんなとめさんに、多くの特攻隊員達が「自分の分まで長生きしてください。自分
の残りの命をおばさんにあげますから」といいながら出撃していった。
散華した特攻隊員達の思いが通じたかのように、とめさんは昭和を生き、平成四年四月二十二日
に天寿を全うした。八十九歳だった。戦後も特攻隊員達の思い出を語りつづけたとめさん。切なく
つらい思い出を一人で背負って生きてきた。献身的で優しさに溢れた人生だった。