和田倉公園から(東京都千代田区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
精神世界、かみ砕いて言えばスピリチュアルな考え方が、ここ数年で流行りだしました。
科学で証明しきれないものを、何か霊的なものが作用して働いているかのように説明がなされ、
だからこそ、その霊的なものと上手く付き合っていきましょう…というのが、だいたいの要旨です。
しかしこれ、盲目的に信じるとか、精神世界のことに全てを入れ込むのは、いささか危険な気がします。
目に見えないことでも、信じれば救われたり、幸せになったりできることは、たしかにあるでしょう。
たとえば、宗教では、科学的には不可解なことが語られたりします。
しかし、そこで信仰をするから、正しい道を歩いたり、人に優しくできたり、真面目に生きる素晴らしさがわかったり、
つまり、たとえ科学的な裏付けがなくても、宗教は人に多くの幸せをもたらしてきたのは事実ですよね。
だから、究極的には、「本人が幸せになれるかどうかは、科学的な裏付けの有無は、実はあんまり関係ない」ということが、言えると思うのです。
さて。
これ、逆のことも言えなくはないですか。
科学的にどうなのかは、幸せにはさほど問題でないことがわかりました。
しかし、だからこそ、人を傷つけたり、「幸せ」を破壊するような考え方は、厳に慎むべきではないでしょうか。
たまに、「スピリチュアル的にはいいことだから」と、現実に適応できなくなってしまったり、
そうでなくても、人との意思のやり取りが上手くできなくなってしまう人がいます。
しかし、本来、精神的だろうとなんだろうと、それは幸せになるためにやっていることで、
目の前にある、与えられた幸せや恵み、豊かさを壊すようなら、果たしてそれはなんのための「精神世界」なんだろうかと思います。
自分の世界なり、価値観なりは、それはそれで、個人の自由だし、大切にしたほうがいいものです。
しかし、現実を壊すのは、結局は「精神世界」で言うところの「恩恵」なりを壊すことと同義で、
本質的には、全然「スピリチュアル」ではないのです。
どうやったら、幸せになれるか。
それは個人の自由ですが、人のテリトリーに踏み込むのは、結果として誰も幸せにはなれません。
自分の世界は、賢く強く、しなやかに深めましょう。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
精神世界、かみ砕いて言えばスピリチュアルな考え方が、ここ数年で流行りだしました。
科学で証明しきれないものを、何か霊的なものが作用して働いているかのように説明がなされ、
だからこそ、その霊的なものと上手く付き合っていきましょう…というのが、だいたいの要旨です。
しかしこれ、盲目的に信じるとか、精神世界のことに全てを入れ込むのは、いささか危険な気がします。
目に見えないことでも、信じれば救われたり、幸せになったりできることは、たしかにあるでしょう。
たとえば、宗教では、科学的には不可解なことが語られたりします。
しかし、そこで信仰をするから、正しい道を歩いたり、人に優しくできたり、真面目に生きる素晴らしさがわかったり、
つまり、たとえ科学的な裏付けがなくても、宗教は人に多くの幸せをもたらしてきたのは事実ですよね。
だから、究極的には、「本人が幸せになれるかどうかは、科学的な裏付けの有無は、実はあんまり関係ない」ということが、言えると思うのです。
さて。
これ、逆のことも言えなくはないですか。
科学的にどうなのかは、幸せにはさほど問題でないことがわかりました。
しかし、だからこそ、人を傷つけたり、「幸せ」を破壊するような考え方は、厳に慎むべきではないでしょうか。
たまに、「スピリチュアル的にはいいことだから」と、現実に適応できなくなってしまったり、
そうでなくても、人との意思のやり取りが上手くできなくなってしまう人がいます。
しかし、本来、精神的だろうとなんだろうと、それは幸せになるためにやっていることで、
目の前にある、与えられた幸せや恵み、豊かさを壊すようなら、果たしてそれはなんのための「精神世界」なんだろうかと思います。
自分の世界なり、価値観なりは、それはそれで、個人の自由だし、大切にしたほうがいいものです。
しかし、現実を壊すのは、結局は「精神世界」で言うところの「恩恵」なりを壊すことと同義で、
本質的には、全然「スピリチュアル」ではないのです。
どうやったら、幸せになれるか。
それは個人の自由ですが、人のテリトリーに踏み込むのは、結果として誰も幸せにはなれません。
自分の世界は、賢く強く、しなやかに深めましょう。