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蝶と花びら(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
ナルシスト。
これ、ものすごく忌み嫌われる性向の人を差して言う言葉ですが、
人間誰しも、一つや二つはナルシストな部分くらい抱えているものです。
外見に限らず、自分に対するどうしようもない恥ずかしい誇大妄想があり、
誰しも一度は、そのやり場に困ってしまう経験をしているほうが、
むしろ人として普通ではないかと私は思います。
ちなみに言うと、「ナルシストじゃないもん!」という自己主張も、
それ自体がナルシストである要素を構成するには十分なわけで、
人間、どこまで行っても、結局ナルシストな部分からは逃れられないのです。
これを踏まえて。
私も散々、「自己陶酔」などというものに苦しめられた経験がある一人として、
「自分に酔う」ことがいかに毒にも薬にもなるか、
これについて、お話ししたいのです。
☆ ☆ ☆
よいことをした。
成果を挙げた。
人に好かれた。
あるいは、具体的な理由はないけど、
自分のしてきたこと、
自分自身の外見や内面、
こんなものに惚れてしまった。
その自己陶酔を人前で出せば、
ただの奇異な人間、つまり「イタい人」でしかありません。
しかし、逆に言えば、人にサトられさえしなければよいのです。
よいことをして、あわよくば人にも幸せになってもらえたなら、
「多少の自己陶酔くらい、むしろ正当なものではないか」と私は思うわけです。
「信賞必罰」という四文字熟語もあるように、
自己嫌悪という感情があるならば、
よいことをした、力を出しきった自分に少しくらい惚れるのも、
人間として許される感情なのではないでしょうか。
問題なのは、それを人にサトられ、そして自分を押し売りする場合のみです。
だいたい、よいことをしたということで自分に惚れているならば、
きっとまた次もよいことをしようと思える原動力になる。
要は、自己陶酔に他人が絡まなければ、
自分に酔うというのも満更ではないと言えるのではないでしょうか。
ただし、「よいことをしたなら自動的に自分に酔えばよいのか」と言うと、
それは人それぞれでしょう。
自分をどう思っていようが、時間が経過していき、刻々と目の前の事象が変化しているというのは、
半ば当たり前にも増して当たり前のことなのです。
つまり、自分に酔っている間にも、
目の前にいる大切な事案や人、環境にどうコミットしていくかは、
どう転んだって自分次第なのです。
自分に酔うあまりに相手そのものを見られなくなるということがあるなら、
それはもう、いくら相手によいことをしていたって、
好意や善意や間違えるきっかけにしかならないのです。
人にしろ、事案にしろ、まず相手があって、
自分に酔うかどうかは二の次の問題です。
目の前に大切なものがあるなら、
ひとまず、全力でそれに集中し、力を注ぎ込むことです。
その代わり、目の前にいない時ぐらいは、ほんの少しだけ自分を甘やかしてやる。
長期的に見れば、そのほうが「正しい行動」や「無私の愛情」を呼んで、
自分に酔おうが酔うまいが、みんな幸せになれると思うのです。