青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

土砂降りの参拝!!

2010年09月23日 14時03分48秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 いやー…。

 ずぶ濡れです。
 今日は神社巡りをしてみようと思ってたのですが、
 これじゃあ、と思って、
 通いやすい1か所を選んで、参拝してきました。

 想いが通じるとよいのですが…

じぶんによう。

2010年09月22日 23時29分18秒 | 青裸々日記。
蝶と花びら(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 ナルシスト。

 これ、ものすごく忌み嫌われる性向の人を差して言う言葉ですが、
 人間誰しも、一つや二つはナルシストな部分くらい抱えているものです。
 外見に限らず、自分に対するどうしようもない恥ずかしい誇大妄想があり、
 誰しも一度は、そのやり場に困ってしまう経験をしているほうが、
 むしろ人として普通ではないかと私は思います。
 ちなみに言うと、「ナルシストじゃないもん!」という自己主張も、
 それ自体がナルシストである要素を構成するには十分なわけで、
 人間、どこまで行っても、結局ナルシストな部分からは逃れられないのです。


 これを踏まえて。

 私も散々、「自己陶酔」などというものに苦しめられた経験がある一人として、
 「自分に酔う」ことがいかに毒にも薬にもなるか、
 これについて、お話ししたいのです。


 ☆ ☆ ☆

 よいことをした。
 成果を挙げた。
 人に好かれた。

 あるいは、具体的な理由はないけど、
 自分のしてきたこと、
 自分自身の外見や内面、
 こんなものに惚れてしまった。

 その自己陶酔を人前で出せば、
 ただの奇異な人間、つまり「イタい人」でしかありません。
 しかし、逆に言えば、人にサトられさえしなければよいのです。

 よいことをして、あわよくば人にも幸せになってもらえたなら、
 「多少の自己陶酔くらい、むしろ正当なものではないか」と私は思うわけです。
 「信賞必罰」という四文字熟語もあるように、
 自己嫌悪という感情があるならば、
 よいことをした、力を出しきった自分に少しくらい惚れるのも、
 人間として許される感情なのではないでしょうか。
 問題なのは、それを人にサトられ、そして自分を押し売りする場合のみです。
 だいたい、よいことをしたということで自分に惚れているならば、
 きっとまた次もよいことをしようと思える原動力になる
 要は、自己陶酔に他人が絡まなければ、
 自分に酔うというのも満更ではないと言えるのではないでしょうか。


 ただし、「よいことをしたなら自動的に自分に酔えばよいのか」と言うと、
 それは人それぞれでしょう。
 自分をどう思っていようが、時間が経過していき、刻々と目の前の事象が変化しているというのは、
 半ば当たり前にも増して当たり前のことなのです。
 つまり、自分に酔っている間にも、
 目の前にいる大切な事案や人、環境にどうコミットしていくかは、
 どう転んだって自分次第なのです

 自分に酔うあまりに相手そのものを見られなくなるということがあるなら、
 それはもう、いくら相手によいことをしていたって、
 好意や善意や間違えるきっかけにしかならないのです。

 人にしろ、事案にしろ、まず相手があって、
 自分に酔うかどうかは二の次の問題です。
 目の前に大切なものがあるなら、
 ひとまず、全力でそれに集中し、力を注ぎ込むことです。
 その代わり、目の前にいない時ぐらいは、ほんの少しだけ自分を甘やかしてやる。
 長期的に見れば、そのほうが「正しい行動」や「無私の愛情」を呼んで、
 自分に酔おうが酔うまいが、みんな幸せになれると思うのです。

笑い上戸

2010年09月22日 11時18分06秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 「よく笑う人ですね」
 「なにがそんなに楽しいの!?」
 などと、最近よく突っ込まれます。

 私は素でいればかなりの笑い上戸なんですが、
 ちょっとでも緊張すると「カタい人!」って言われちゃうんですねえ。
 「だから、私が素でいられる人が増えたのかなあ」とか、少しうれしい気分だったりも。


 もちろん緊張したら無理だし、
 空気を読むように気をつけてますよ。
 でもまあ、心の奥底では笑顔でいたいと思っているのは間違いないので、
 好印象になるように、引き続き笑顔の研究ができればなあ、なんて考えています。

リカバリー。

2010年09月22日 11時09分14秒 | 青裸々日記。
花と蝶々(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 理想と現実。
 この違いを認めるのは、意外に大変なことです。

 誰しも、
 「これがこうなるから上手くいく」
 「自分の力が生きると思う」
 こんなような予測をし、希望や期待を持って、
 行動を起こすものです。

 しかし、人間のやることです。
 予測が100%当たるようであれば、
 それはもはや、「予測」とは呼べません。
 「予言」と呼ぶべきものでしょう。
 しかし、人間に予言が不可能なのは、
 誰も永遠に未来のことなんて知る術がないからです。
 そうであれば、どんなに力がある人でも、
 いつも必ず理想が満たされるとは限らないわけです。

 理想にはもれなく願望が付き纏うものです。
 私達は自分の経験があればこそ、予測が当たり、
 そしてある程度は理想が実現するべきだと、無意識に信じているものです。
 ところが現実はというと、様々な条件やボトルネック、
 そしてまさに直面した時の心的態度によって、
 見事に予測が裏切られてしまうことがあります。
 それを認められないから、理想と現実の違いが大きければ大きいほど、
 途方もない苦しみに襲われてしまうのです。


 では、どう考えればよいのでしょうか!?

 失敗が避けられない、
 理想の実現が100%不可能なのであれば、
 むしろそのフォローのほうが大切になることだってある
のです。
 失敗が起こらないように万全の準備をするのは、
 ある種、わざわざ意識せずともわかることです。
 失敗を完全に防ぐ手立てなどどこにも存在しないのです
 あたかもそんな夢のようなものがあると思いたくなる気持ちは「人情」とも呼ぶべき心理なのでしょうが、
 裏を返せば、人間誰しも、基本的に失敗には弱いものなのです。
 そうであれば、失敗のダメージをいち早く「なかったこと」にするケアが必要になります。
 それが「リカバリー」なのです。


 たくさん傷ついた。
 失敗して嫌になった。
 ヤル気がなくなってしまった。
 好きなのに上手くいかない。
 以前ほどスキじゃない。

 せっかくの前向きな気持ちも、
 失敗を機に萎ませてしまうのであれば、
 それはたとえプラスの行為でも、自分のしてきたことが無にかえってしまいかねません。
 失敗が避けられないのであれば、
 せめて途中までは成功していた点は大切にする、
 被害を拡大させない、
 時間を有意義に、そしていかに周りにもよい影響を与えるか考える、
 このためにこそ、「リカバリー」が必要なのです。


 流れてしまった流し素麺は、もう他の人が食べてしまっています。
 しかし、呆気(あっけ)に取られている間に、
 目の前にはもっと新鮮な素麺が流れているのです。

 失敗が避けられないなら、
 それに対して意気をなくすのではなく、
 意気を回復させる力を養っておく、
 こちらのほうが、幾分は安心して物事に取り掛かることが出来ると思うのです。

習慣化。

2010年09月21日 23時57分29秒 | 青裸々日記。
ルリマツリ(神奈川県横須賀市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 自分の能力を付けたり、自分を磨いたりする場合、
 あるいは新たな習慣を作り、実行していく場合、
 その環境に適応すべく、「体質」を作り上げていくことが大切になってきます。

 しかし、新しい習慣の前には、必ず古い、従来の習慣があります
 私達はつい、いきなり新しい習慣へと移る時、
 新しい体質を求めて成果を期待するような「はやとちり」をしてしまいがちです。
 しかし、ちょっと考えてみていただきたいのです。
 習慣というのは膨大な反復があって出来上がるものであり、
 その習慣に適応するための体質も、それと歩調を合わせるべく、
 もれなく膨大な反復があるがゆえに形成されてゆくものです。
 したがって、膨大な反復ゆえに出来上がったものを覆す場合、
 同じ位の量や質の変化が不可欠
なわけです。

 新たな習慣を取り入れて体質を改善しにいくにしても、
 「体質」なり「習慣」の改善に即効性を期待することが無駄だということが、
 以上でおわかりになるでしょうか。



 実はこれ、三日坊主や飽きっぽい人、
 真面目なのに挫折しやすい人の急所なのです。
 もとい、私達は押しなべて「期待過剰」や「怠け癖」、「変身願望」なんていう、
 人間なら誰しも持っている負の部分を抱えているわけで、
 私も含めて、以上のような話をされると「ズキッ」と来てしまう方がほとんどだと思います。


 では、新たな習慣で挫折しないためには、
 そして、より良い体質を手に入れていくためには、
 どうすればよいのでしょうか!?

 …なんのことはない、
 即効性なんてものを期待しなければよいのです。
 しかし、「即効性がなければやる気もなくなるじゃない!!」と思うでしょう。
 そこが落とし穴なのです。

 一言で即効性といっても、
 「100%変わる」ことを期待するか、
 「5%でも変わる」ことを期待するか、
 この両者は全く別物です。
 私が言いたいのは「100%全く別人のようになる」期待をしないこと。
 「最初は5%でいいじゃない」と言える、ある種のヤル気のなさ、
 そしてまた、謙虚さや地道ささえあればよい
のです。
 最初は5%だからと言って諦めたり、馬鹿にしてはいけません。
 反復さえしていけば、だんだんと割合が増え、
 それだけ変身できる可能性が上がるのです。


 つまり、体質や習慣を変えるには、
 「5%でも成功だ」と喜んで言える、
 そんな気持ちが不可欠なのです
 どんな努力も、楽しんだ人が続くのです。

静岡名物

2010年09月21日 17時30分41秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 これ、知ってますか!?

 実は、静岡はもとより全国でも有数の漁港、
 焼津港で捕れた鮪を加工したもので、「ツナピコ」と呼ばれています。
 お菓子やおつまみに最適ですが、
 ちょっと濃いので食べ過ぎには注意が必要だったりも。
 でも、おいしいです。

 たまにスーパーとかで売っていると思うので、
 可愛がってあげて下さい(笑)

それはそれでしかたない。

2010年09月21日 11時12分23秒 | 青裸々日記。
ルリマツリ(神奈川県横須賀市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 東京から静岡まで、電車でいく場合の話です。
 東京から静岡へは新幹線と在来線がありますが、
 当然、新幹線に乗るにはお金がかかります。
 したがって、急ぎたい場合でも、
 お金の有無が結局は時間を左右してしまうことがあります。


 このように、ベストを尽くせるためには、
 まずベストを尽くせる環境を作ることが大切になってくる
わけです。

 しかし、「ベストを尽くす!」というのは、いろいろな意味があります。
 人間、いろいろな制限があると、
 満足に本人の実力や魅力を発揮しきれないことがあります。
 それで結果や支持が伴わないことになってしまうことだって、ままあります。
 ベストというとつい100%のものを意識してしまいがちです。
 しかし、60%だって、70%だって、制限があって自分に出来ることが限られていれば、
 それは客観的に見て「いくら全力投球じゃない」と言えるものであっても、
 あるいは、本人が「完全燃焼じゃない」と言っても、
 私はあえて「ベストだ」と言いたいのです。


 さきほど「制限」と書きました。
 しれっと「制限」とか書いているから綺麗に見えますが、
 なんのことはない、「制限」とは「言い訳」のことです

 環境が許さない。
 しがらみがあって主張する術がない。
 嫌われたくない。
 精神的に不調だった。
 気が乗らない。
 めんどくさい。
 プライドが傷つく。
 相性が悪い。
 疲れているから無理。
 相手が「わかって」いない。
 結果が見えているからやらない。

 実にだらしのない、情けない口実です。
 しかし、どんなにくだらない言い訳でも、
 言い訳をしてみないとをしないとその原因を取り除くのは不可能なのです。

 言い訳が嫌なら、それを突き止めて言い訳の出ない環境を作ればよい。
 そうしているうちに、本人の発揮できるパフォーマンスを30%→45→70%→80%→…みたいに、
 少しずつ地道にやっていけばよいのではないでしょうか。


 「言い訳」というと、どこか「だらしなさ」や「弱さ」などと、邪魔物呼ばわれされがちです。
 しかし、ない袖は振れません。
 言い訳が悪者になる原因は、
 ・人に振り撒くこと
 ・それを解決しようとしないこと
 というだけの話。
 私は、言い訳の出来ない人は逆にダメなんじゃないかと思います
 自分の言い訳のマネジメントをすることが、
 真の意味での自立であり、ベストの尽くし方のひとつとは言えないでしょうか

そこにあるギフト。

2010年09月20日 22時12分09秒 | 青裸々日記。
花虎ノ尾(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 人間、一度選択をしてしまうと、
 選ばなかった方が魅力的に見えてしまうことがあるものです。
 あるいはまた、「成功すれば全てよしだけど、失敗したら無駄」といった考えに陥りがちです。


 しかし、これは錯覚している部分があるのです。

 「どんなことをしても、必ず副作用が起こる」のがこの世の常なのです。
 仕事にしても、恋愛にしても、はたまた日常生活全般においても、
 上手くいったらいったで、それに伴う責任や時間、労力、さらにはプレッシャーがセットでくっついてくるものです。
 反対に、上手くいかないならいかないで、
 長年気づけなかった反省点や改善策、あるいはしがらみからの解放なりがあったりするわけです。

 私が言いたいのは、「メリットにさえ注目すれば、どんな結果になっても正解に出来得る」ということです。
 「上手くいかなかったからマイナスになった」というような話は、一見、正しいように思えます。
 しかし、上手くいった場合といかなかった場合で比較する時、
 そのメリットとデメリットで比較したところで、
 比較する意味自体はないのです。
 成功するメリットとしないメリット、
 失敗するデメリットとうまくいくデメリット、
 これらを対称にするのが、比較のやり方としては正しいわけです。

 しかも、その果実の度合いも、6対4や5対5など、
 失う一方で得ているメリットも必ずあるわけです。
 さらに言ってしまえば、どちらかに圧倒的なメリットがあるとは限らない、
 どちらの結果でもまあそれなりに自分の骨肉になるということだって、あるにはあるわけです。


 いずれにしても、一見してプラスになりそうかマイナスになりそうか、
 これだけで判断して冒進したり、あるいは慎重になるのも考えものです。
 どんな結果にも、もれなくよい面と悪い面があります。
 結果は結果でしかありませんが、
 そこに意味を与えること、
 それを糧にすることは、
 私達次第の面もあるのです



 ここを理解すれば、全てのことに意味を与えて、
 より生産的な生き方ができるというもの。
 すぐにわからなくてもいい、
 どんなことにも、「いつか意味を見出だせますように」と思えるようになることが、
 上手くいくかいかないかよりも大切なのです

二十世紀梨

2010年09月20日 18時33分20秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 味覚の秋。

 私は秋が嫌いなのですが、
 しかしまあ、実りの秋でもあるわけで、
 おいしいものが出回る季節でもあります。
 その中でもダイスキなのがこの「梨」なんですねえ。


 ジューシーな上に、ほんのりとした甘さが魅力的です。
 明日もむいて食べよーっと!!

諸磯明神社・小桜神社

2010年09月20日 07時05分05秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 昨年から、「よくドジを踏むし、でも前向きに生きたい」との強い思いがあって、
 神社やお寺の参拝が習慣になりました。
 こんな私でも、いや、こんな私だからこそ、
 参拝することで「ごめんなさい」したり、お力をお借りできれば、
 そして助けていただいたと思ったら感謝できれば、
 なんて思っているんです。


 そんなわけで。

 昨日は「関東有数のパワースポット」と言われる、
 三浦半島にある、諸磯明神社と小桜神社に参拝してきました。
 こちらは最近知ったのですが、
 祀られている小桜姫には悲しい物語があったりします。
 興味のある方は調べてみて下さい。

 さて、向かうには京急線の終点・三崎口駅からバスで「浜諸磯」というところまで行くのですが、
 なんせバスが1時間に1本しかありません。
 他の経路のバス停から歩くと、間違いなくアップダウンに苦しめられるので、
 時間は調べておいたほうがよいと思います。

 その「浜諸磯」バス停に着くと、
 諸磯明神社と小桜神社は目の前。
 神社の名前は表にありませんが、
 鳥居が立っているのでわかりやすいかと思います。



 ここは本当にスゴイ。
 こんなにも独特の雰囲気で、
 圧倒された神社は初めてです!
 大きいというわけではないのですが、
 神社の周りの緑も手伝っで、
 すごい不思議な気持ちになりました。


 写真もたくさん撮りたかったのですが、
 それはなんか違うと思い、
 代わりに神社で出迎えてくれた小猫ちゃんのお写真にしました。

 なんだろう、長居したいような、でも長居していたら少し悪くも思うので、
 帰りのバスよりほんの少しだけ早く、小桜神社を後にしました。


 いろいろとなんだかフワッとした気持ちになれました。
 ありがとうございました。

私にも出来た一日三善

2010年09月19日 23時55分51秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 今日は電車で私の隣の席が空いたのですが、
 そこにカップルがやって来て。
 で、彼女さんの側が座ったんです。

 私はこういうトキ、疲れていない限り、
 絶対にもう片方の方に席を譲るコトにしているんです。

 そのあとバスに乗ったんですが、
 やはり混んでいて、家族がやや離れ離れに座ることになりそうだったので、
 そこでもまた譲りました。


 嬉しいのが、どちらも降りる際にわざわざ「ありがとう」と言って下さったこと。
 気持ち良くって、夜にまた誰かに譲れたらよいなあ、ステキだなあ!なんて思っていたんです。


 そしたら、あったんです。
 三度目が。

 夜、私の横の席が空いて、
 またカップルの彼女さんの方が座ったので、
 すかさずに席を譲りました。
 ただ、終点まで30分以上あり…、
 作戦Aを発動。

 席を譲って遠慮された場合なんですが、
 私の場合、「すぐ降りますから」とか適当に言っておけばよいと考えているんです。
 なんせ、譲れりゃバンザイなんですから。
 それが出まかせだと覚られるのが嫌だったら、次の駅で降りるフリをして隣の車両に行ってしまえば、
 別に角はたたないわけで
 (この位の腹黒さ?は許して下さい)。

 だから、次の駅で1つ前の車両に行きました。


 やっぱりすがすがしい、よい気分になるものですよね。
 カップルさんやご家族には、幸せでいてもらいたいですもん。

ホテル京急油壺観潮荘・日帰り入浴

2010年09月19日 21時52分41秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 今日は3Kgの荷物を抱えてたくさん歩いてまわったので、
 普段からプチ受験生みたいな生活なこともあり、
 私より頑張っていらっしゃる皆さんには申し訳ないながら、自分にごほうびをあげました。

 向かった先は、三浦半島の油壺にある、
 『ホテル京急油壺「観潮荘」』。
 そこでは露天風呂の日帰り入浴が出来るので、
 フラッと寄ってみたんです。

 ここの売りは、海洋深層水を使った露天風呂です。
 もうこれがヤバい。
 ヤバい効き方というか、なんか過去最高の気持ち良さでした。
 体を洗って露天風呂に浸かると、
 もうあからさまに体がリラックスしているのがわかって、
 ずっと顔を梅干しみたいにキューっとして「あぁあぁあ~、効く…」って感じで持ち切りでした(笑)
 もう閉館までずっといたかった位です。


 また近いうち、どこかに浸かりに行きます。
 コレは決定事項ということで。

悲惨な10代を送るということ。

2010年09月19日 19時15分42秒 | 雑感、雑記
花虎ノ尾(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 ちょっとまあ、いわゆる世間話っぽくてゴメンナサイね。
 こんな話もあったな、ぐらいに思ってもらえたらうれしくて。

 私は10代の頃、日陰の部分を数多く歩んできました。
 失恋や赤点(数学だけはニガテだったのです)といった基本的なものはもちろん、
 嫌がらせやいじめの両方の側を経験する、
 クラスや部活での孤立、
 両親との不仲(「おこづかい」や「部活のお金」の工面が上手くいかず、かなり揉めました)、
 仕事ができなくてアルバイトでクビ寸前になるなど、
 いわゆる「青春」とは掛け離れた毎日を送っていたわけです。
 だから、「部活や大会の帰りに友達と仲良くコンビニでお菓子を食べる」という「当たり前のこと」が、
 私には出来なかった。
 なんで周りはソツのない毎日を送っているのに自分だけが苦しんでいるのか、
 こんな辛酸を舐めるような日々でした。
 得意教科はある、校外や学外に親友や友人がいる、
 なんとか真面目さだけは買ってくれた人がいるなど恵まれた点があったとは言えど、
 特に多感な時期だっただけに、
 どこか悲劇のヒーローめいた空気に圧倒され、なすすべもなくなった無力な私がそこにいたのでした。


 しかし。

 私はその悲惨な経験こそが、
 私の生きる力になっているという自負があるのです。


 恵まれている状態が当たり前になると、
 「恵まれている」ということがどんなものか、だんだんわからなくなってしまいます。
 「恵まれた状態を勝ち取る大切さ」、
 それが身に染みてわかったのが10代の頃なのです。


 人間、華やかなものに魅力を感じるのは当たり前のことです。
 しかし、華やかさにしか価値を見出だせないとなれば、
 外ならぬ自分自身が苦しむのです


 というのも、生きていれば順風満帆、百戦百勝とはいきません。
 また、人間、弱い部分や嫌な部分も持っているもの。
 「こんなこと位なんだ、常識じゃないか」ってつい思ってしまいがちですが、
 実際には、いざ上手くいっていないほど、見たくもないような自分がそこにいるわけです
 「逆境を経験すれば弱者に優しくなれる」なんて軽すぎます。
 「逆境を経験して、嫌な自分と向き合えただけ人に優しくなれる」のです。

 早いうちに自分の弱さ、どうしようもなさを知れてよかったです。
 それがためにお節介になってしまいもするんですが、
 人に優しくする大切さ
 途方のない孤独感への対処法、
 自分のどうしようもなさとの向き合い方、
 こういったものにぶつかったからこそ、人間的な彫りや奥行きの深さを育めたんだなあ、と思います。
 一見、「ドロドロとした、何の得にもならなそうなこと」です。
 しかし、自立して生きるのであれば、
 あるいは、華やかさに憧れるのであれば、
 「アウトプットだけでは計れない、こういった根っこの部分」をいかに安定させるかが、
 自分の理想をどれだけ体現できるかを左右するのです。
 自分のめんどくささ、どうしようもなさ、
 こんなものを「大人になってから初めて経験した」というのでは、再起不能になりかねないのです。


 悲惨な体験なんかしなくても、自分と向き合えさえすればよい。
 しかし、悲惨な体験ほど、自分の嫌な部分を否応なしに見せてくれます。
 そこに意味を見いだせた時こそが、
 「人間的に基礎が固まり、自分一人で華やかさを勝ち取る力を獲得した時」と言えるのではないでしょうか。

ポイント募金で東日本大震災復興支援!