青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

「心を鍛える」!?

2013年03月06日 03時32分39秒 | 青裸々日記。
亀戸天満宮の梅の花(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「心」は、果たして鍛えれば必ず強くなるものなのでしょうか!?

 私は、心は必ずしも強くなるものとは限らないと思うのですね。
 なぜなら、「鍛える→必ず強くなる」とわかりきっているのなら、誰だってメンタルトレーニングをやっているはずです。
 しかし、現実には、「心そのものが強くなる」のではなく、「姿勢や感じ方が変わった結果、心の在り方も変わった」という場合がほとんどな気がするのですね。


 それに、「心が強くなる」って、結局はどういうことを指すのでしょうか。
 たとえば、鈍感になることが強くなるというのなら、それは、引き換えに、細やかな感性を犠牲にすることにはなりませんか。
 あるいは、人を傷つける力を強く持つのなら、それは、人に嫌われる要素を色濃くするだけで、
 「強くなる」意義はさほどないものと思われても、仕方がない気がしませんか。
 「意志を貫徹する」という、一見好ましそうな場合ですら、ややもすれば、「他を受け入れたり、広い視野を持つ柔軟性をなくす」とも言えたりするわけです。


 そうです。

 世間一般に言われる「強い」状態でも、見方を変えれば「弱く」なっている部分があるわけです。
 理想的な状態を目指すことは否定しませんが、
 強くなりたいとして、じゃあ、どれくらい強くなりたいのか、どういう風な強さが必要なのかを考えると、
 実は、超人的なレベルを目指しているという場合がほとんどではないかと思うのですね


 そしてまた、そもそも、心はそんなに簡単に強くはならない場合だって、本当は多々あるのが現実なのです。

 どんなに心が強そうに見える人でも、ふとした仕種や一言に傷ついてしまうことはあります。
 あるいは、それまで頑張っていたとしても、ふとした風向きで傷つきやすくなってしまうことだってあるでしょう。



 では、どうすればしなやかに生きられるか。

 心の感じ方、つまり受け取り方を変えればいいのです。



 どんなに体が強い人でも、柔道で投げられたら、受け身を取りますよね。
 まさかそのまま投げられては、一たまりもないでしょう。
 それと同じなんです。


 心を強く持っていきたくなるのはわかります。
 しかし、現実には、強くしたところでどうしようもないことのほうが多いのです。
 それならば、考え方や感じ方、受け取り方を工夫したほうが早い
 そうでなくとも、「強く」なるデメリットがあることにも、きちんと目を向けたほうがよいのです。



 繰り返します。
 心は、強くはならないのですよ。
 もし言うのなら、丸腰で自然体であるのが、一番強い状態なのかもしれません。

むしゃむしゃ…

2013年03月04日 06時05分53秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 プレーリードッグは、色々と愛らしい格好を見せてくれます。


 この食事が、そのひとつ。
 プレーリードッグは、無邪気さが一番の魅力ですね(*^_^*)


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「自分大好き人間」。

2013年03月03日 23時27分13秒 | 青裸々日記。
亀戸天満宮の梅の花(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「あなたは自分が大好きなんですね」と言われたら、普通は嫌な気分になりますよね。
 「自分大好き」ということは、「話し相手や他人はどうでもいい」という意味にもなりかねないからです。
 そうすると、「自分を落として、どこかいじけたような生き方や考え方」が正解であるかのようにも思えてくるかもしれませんが、
 現実に、自分を好きでいられないとか、認められないでいて、それで生きやすくなるか、他人に親切にできるかといえば、
 必ずしもそうとは限らないのではないでしょうか?


 自己嫌悪感という感情は、相当しんどい感情だと思いませんか。
 自分の部屋の居心地が悪いと不快感を覚えるものですが、
 それが自分自身ともなると、生きていること自体が辛くもなるものです。

 さて、そのつらい状態で、果たして人に優しくしたり、思いやりを持てるかといえば、
 まず難しいと思うのです。
 あるいは、仮に人への気持ちを持てたとして、
 心の荷が重いか軽いかでは、やれることだって、違ってくるのではないでしょうか。


 さあ、そうなると、困ってしまいますよね(笑)
 「自分が大好きなんだね」と後ろ指をさされるようだと、人に嫌われます。
 そうとは言えど、自分を下げて嫌っていればいいかといえば、それもうまくいかない。

 …と、ここには盲点があるのです。


 皆さんは、好きな人に、人に嫌われるようなことを願ったりするでしょうか。
 違いますよね。
 嫌われるようなことが少なくなるよう、一緒に頑張ってみる、
 これが、好きな人に対する考え方ではないでしょうか。


 ということは。
 「自分が大好きなんだね」と言われるようなら、むしろ、本当の意味でもっと自分を大切にしてみては?という考え方をしていけば、
 劇的に人間関係も変わると思うのですね



 自分を大切に思えばこそ、人に対しても無私の心を差し出す尊さを知ろうという気持ちになるわけです
 無私の心がわかっているから、人に対しても惜しみなく出し切ることができる
 我欲と縁を絶てるのです


 自分が大好きだという気持ち、大いに結構です。
 ですが、大好きだからこそ、「自分だけ」で終わらない姿勢が、重要になってくるのです。

満ち足りるということ。

2013年03月02日 20時27分51秒 | 青裸々日記。
亀戸天満宮の梅(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「性格を作っている人」というのは、えてして鼻につくものです。
 なぜ性格を作る必要があるかといえば、それは自分を実際以上に見せて、その代償として構ってもらったり、高く評価してもらいたいからです。
 つまり、自己中心的な気持ちに始まり、自分自身が幸せかどうかに終わる。
 他人はそっちのけなのです。
 だから、いくら表面が美しいかろうと、そんな下心や交換条件を差し出されたところで、いい気持ちはしませんよね。



 それでは、同じことをしているはずなのに、なぜ「素の人」と「作った人」を見分けることができるのでしょうか?


 素で行動するには、さりげなさが必要です。
 いささかややこしい話にはなりますが、「さりげない」というのは、言い換えれば「違和感がない」とか「連続性がある」ということですよね。
 そして、違和感がないように思えるためには、「その人の普段の飾らない状態での振る舞いや態度」と「親切な行動」が、掛け離れていなければいいということになります。


 それでは。
 「自然に親切にする」には、普段の立ち居振る舞いが優しく親切なものでなくてはならないという条件が、出てくると思うのですね。

 ということは、これで答えが見えました。
 「自然な親切心」は、普段の態度で「純度」が決まり、その純度が高いほど、人にも幸せになってもらえるわけです。

 作ったような態度には、必ずわざとらしさが潜んでいます。
 なぜ、わざとらしさが出るかと言えば、本心でないほど、態度にもぎこちなさが顕れてしまうからです。

 つまり、その「ぎこちなさ」を変えればいいわけです。
 それには、どうすればよいのでしょうか!?

 まずは無私の心で、人のために何かをする、あるいは人の幸せや心の平和を願うこと、
 これに尽きます。
 しかし、そのためには、まずは自分自身の心が幸せや平和、優しさで満たされていなければならないのです。

 なぜだかわかりますか?

 「人の不幸は、蜜の味」とか、よく言われますよね
 醜いようですが本当にその通りで、より素直に人を思えるようになるのは、やはり自分自身が幸せでいる時…というのが、正直なところではないかと思うのですね
 だからこそ
 当たり前のように優しくするには、まずは自分自身の心が穏やかであるほど、無私の気持ち、言い換えれば純粋な気持ちを差し向けられるということになるのです


 見てくれを作るのは自由です。
 でも、「急がば回れ!」というように、見てくれを作るくらいなら、
 まずは自分自身の心を満たして、溢れ出るように気持ちを出していくほうが、
 より自然に、より多くの人に届くと思うのです。

レッサーパンダ

2013年03月02日 11時41分22秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 レッサーパンダです。

 普段はあちこち動き回る習性があるのですが、
 この日はおねむだったのか、木の上で、ゆっくりしてました。
 撮る側からすればラッキーなのですが…、
 元気にしていてもらいたいのも、本音だったりします。
 複雑ですね(*^.^*)


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プライド。

2013年03月01日 23時41分53秒 | 青裸々日記。
亀戸天満宮の梅(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「プライド」という言葉、ありますよね。

 辞書的に言えば「自分や物、能力などに対する強いこだわり」ということになります。
 ただし、こだわりは、あったほうがいいとは限らないこと、
 皆さん、よく経験したりはしないでしょう。
 こだわり強すぎるがために、格好や成り行きが気に入らないと、
 せっかくの幸せを逃してしまったり、成功したにしても、上手くいく度合いを自分から下げにいってしまいがちです。
 しかし、もちろん、「秘伝の品質」というものがあるように、こだわればこそのものもあります。


 そうすると、この「プライド」というのは、薬なのか毒なのか、味方なのか敵なのか、
 よくわかりませんよね。

 そこで、この「プライド」というものとの付き合い方について、一緒に考えてみましょう。



 さて。
 先程、「プライド」とは「こだわり」のこととお話ししました。
 ただしこれ、正確に言えば、「こだわりたい気持ち」のことで、「こだわった結果」についての話ではないのですね。
 つまり、実力や実態のあるなしにかかわらず、「いやいや、自分はこれこれこうだから」という態度でいることが、
 「プライドを守る」ということになります。

 ということは、お分かりになるでしょうか。
 たとえば、歌を歌う場合、「自分は日本一のボーカリストだから」と思って歌う(=プライドを持って歌う)のは、いくらやったって自由なわけです。
 しかし、実態や実力がなければないほど、
 本人は現実とのギャップに苦痛を覚え、周りも不相応な態度だということで、敬遠していくのが関の山ではないでしょうか。


 人間、少し上を目指して頑張るのは、とても楽しいことです。
 それに、ちょっと位、自分の器量を水増しして、自分に酔ってみたくなるのもまた、人情ではないかと思うのです。
 そしてまた、ちょっと自分に酔っている位が、フットワークも軽く意欲的になれるし、
 頑張り甲斐も出てくるものですよね。
 だから、プライドそのものは、あったほうがいいのです。



 お分かりになったでしょうか。

 プライドには、実態がなくてよい以上、多少は実像と違っていてもいいし、
 そのギャップこそが、幸せや自信、成長の源になることも多々あります

 しかし、どこかで実態や実像がわかっていないと、
 プライドと現実のギャップが、かえって自分を苦しめ、人からも疎まれる要因となる、
 つまり、味方であるはずのプライドが「敵」となってしまうのです

 プライドは、味方にするためにあるのです


 最後に。

 「男はプライドの生き物」と言われますが、裏を返せば、男性は、実像に下駄を履かせてモノを見がちということかもしれません。
 あくまで傾向の話ですが、他山の石として、努めて学びたいところですよね。

GOLD

2013年03月01日 05時25分25秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 浅草・吾妻橋からの、有名な風景なのですが…、


 夕日に照らされて、金色の建物がさらに金色に輝いてます!
 感動して、思わず撮ってしまいました。


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