現在の日本共産党組織の問題点を簡潔に言うと党規約にある『民主集中制』の問題に集約されるのではないでしょうか。?
何故現在の日本共産党は民主集中制にこだわるのか。?
なぜ民主主義だけではいけないのか。?
日本共産党機関紙赤旗では、『集団的に検討、その決定に参加した人々は決定を全面実践する責任があります。これが民主集中制の基本的原則です。』と説明する。
ですが、検討段階で反対であっても実践段階では決定に従がうのは民主主義の基本原則であって、共産党の様にあらためて聞き慣れない『民主集中制』などと小難しく言い変える必要性は少しも無い。
合理的な理由がまったくありません。
ではなぜ共産党幹部は『民主集中制』にこだわるのか。?
この言葉は前半の『民主』ではなく、本音は後半の『集中制』にこそ、其の本当の重要性があるのではないか。?
民主主義は一般党員の利益に、集中制は党幹部の利益になります。
1980年代以降党勢が伸び悩んでいる原因は『集中制』の不足ではなく『民主主義』の不足が原因しています。
それで結果的には自民党や民主党などの保守政党に利益を与えているのです。
『民主主義的中央集権制の意味では無い民主集中制』
『民主集中制=民主主義的中央集権制』などと言う考えは間違いで、実は民主主義的中央集権制を敗戦後の日本共産党が組織原則とした歴史は一度もありません。
『中央集権制(独裁制または専制政治)は民主集中制の対極にある制度である』が今の日本共産党の公式見解のはずです。
日本共産党の歴史において、1980年代以前と以降の余りの違いに党員も支持者も気が付いていると思います。
80年代以前では選挙のたびに議席が増えるのが当たり前、得票が増えるのが常識だったのです。
正しい『政策』を宣伝すれば勝って当然です。
選挙のたびに共産党が、文字どおり倍増する勢いで躍進した。
結党以来85年の歴史と言われているが、戦前にはインテリ層の極一部に知られていただけで、大衆は全く其の存在を知らなかった。
有権者は存在も知らない共産党の政策など知る由も無い。
よって共産党が候補を立て政策ビラをまけば自動的に党躍進になった。
この状態が80年代まで続いたのです。
しかし、80年代以降は皆さんがよく知っているじり貧の停滞状態が続きます。
20年以上前の話ですが、大躍進が止まった時に共産党中央は其の原因を自民党などの反動勢力による『反共攻撃が原因である』と説明しました。
39議席に共産党が躍進した直後、不破書記長の秘書が酔っ払って他人の自転車に乗っていたと言うような瑣末な事件が、マスコミ総がかりで次々と大々的に報道されました。
そのために、殆どの党員や支持者は反共攻撃の説明に納得しました。
しかしマルクスエンゲルスの共産党宣言の記述にあるように反共攻撃は150年前から存在し、1980年ごろまでは激しい反共攻撃の中でも躍進していたのです。
『普通の一般市民の目線では』
普通の考えでは字面上、『民主集中制』は『民主主義的中央集権制』(democratic centralism)の省略形であると思われている。
そして、どの様な組織でも構成員の無条件の『自由』を認めれば統一組織としてもたない。
その限りでは、どの政党も共産党のような『民主集中制』でないと成り立たないのは当然で、いわゆる『党議拘束』はその現れの一つでしょう。
言葉の意味的にはその通りかもしれないが、一般的な印象としてこの『民主集中制』の言葉には、旧社会主義国の一党独裁的な、『民主主義』とは名ばかりの中央集権(独裁)や専制政治などのマイナスイメージがこびり付いていて、残念なことに現在の共産党もその呪縛から完全に自由にはなれていない。
日本共産党など政党に限らず人が何かの組織に所属すると、その組織への忠誠心がトップへの忠誠心に取って代わられるという『倒錯』は、しばしば見られる現象である。
このような組織上の混乱現象、『人治』(組織防衛を目的とする)を防ぎ『法治』を守る(組織自体の「目的」を優先する)ことが出来るかどうかは、人事面での組織の新陳代謝の健全化以外にはないでしょう。
『字面上では「民主集中制」は民主主義的中央集権制の省略形なのだが』
文法的には全く『同じもの』なのですが日本共産党は『集中制』と言っても『中央集権性』と言うことは絶対にありません。
此処を巧妙に注意深く使い分けている。
自分たちが世間からどの様に見られているか、ある程度は自覚があるようです。
日本共産党が『中央集権制』と見られることを極端に嫌っています。
一部のお馬鹿なネットコミュニストのように民主集中制=民主主義的中央集権制は、官僚主義的中央集権制の対極などとは言いません。
では何故日本共産党は『中央集権制』と言う言葉の使用を躊躇うのか。
答えは簡単で、党の支持者や有権者たちが『中央主権制』を嫌っていることを良く知っているからです。
『中央集権制』を声高に叫べば共産党の得票に影響するのは明らかで、党幹部は其のことを良く知っています。
今現在、党勢が伸び悩んでいるのは共産党の存在を大衆が知らないからではない。
また共産党の政策を有権者が知らないからでもない。
多くの有権者が共産党に投票しないのは、共産党の政策に反対しているからではない。
多くの有権者(多分国民の8割)は日本共産党の政策に賛成している。しかし共産党に投票しない。
なぜ、政策には賛成しても日本共産党に投票しないかの理由は有権者に聞いてみるとよい。
其れこそが『中央集権制』なのです。
共産党は『今は良い事を言っている。』しかし政権を執ったらどうなるか、大衆は其れを心配している。
中国や旧ソ連の悪い見本には事欠かない。
有権者は共産党の政策を支持しているが、共産党の中央集権制にはっきりと反対しているのです。
『既に答えは出ている』
共産党にとっての、もう『答え』は出ているのです。
今回の参議院大敗では何時もなら必ずあるはずの決まり文句『悪質な反共宣伝で敗北云々』の言葉がなかった。
しかし、それ以前の選挙総括では必ずこの『反共宣伝』の決まり台詞が選挙の敗北原因とされていたのです。
20年以上の共産党の停滞の理由を『反共宣伝』『反共活動』に求めるのは元々無理がある。
マルクスエンゲルスの共産党宣言の昔から反共宣伝は歴史的事実がある。
反共攻撃は150年前から存在し、1945年の帝国の敗戦までは治安維持法で共産党組織は壊滅。敗戦後に再建されたがアメリカ占領時代の吉田茂内閣時代には松川事件などの謀略事件をでっち上げて『共産党の破壊工作である』と大宣伝し共産党は壊滅的被害に遇うも、1980年ごろまでは激しい反共攻撃の中でも躍進していた。
『悪質な反共宣伝で敗北云々』は客観的事実であるが、事実の全部では無い。
全ての組織は肥大化すると例外なしに中央集権を指向していきます。
組織とは本来的に中央集権を内包しています。
しかし21世紀の現在において『中央集権』を組織原則に掲げる政党は日本共産党だけ。
しかし、実は程度の差は有れど政党など全ての組織、団体は皆中央集権的な要素を含むのです。
例えば自民党は党名に自由と民主主義を上げ、組織原則に民主主義を掲げていますが、共産党以上に中央集権制を執っています。(党大会で決めるのは党首だけで、全ての中央役員は党首が決める)
共産党は戦後0から出発し倍倍ゲームのように躍進した。
7~8%の得票になった時から停滞が始まって25年間この状態が続く。
全ての政党が民主主義を掲げている現在において、共産党一人が其れに逆らい集権制を組織原則に掲げる。
これで勝てる方が可笑しい。
実態はすべての政党の中で一番民主主義的に運営されている共産党が唯一人だけ『中央集権』を叫ぶ。
愚かしい限りである。
一般大衆は民主主義は歓迎しても中央集権は歓迎しない。
共産党はわざと人々が嫌がる言葉を使いたがる。
果たして、日本共産党幹部達は、『民主集中制』と言っても『民主主義的中央集権制』とは言わない理由を合理的に説明できるのでしょうか。
多くの有権者(多分国民の8割)は日本共産党の政策に賛成している。
しかし共産党に投票しない。
本当かどうか知りたいのなら共産党ではなく民主党とでも名乗ってみてください。
全く同じ政策がほとんどの有権者の支持を集めるでしょう。
共産党の政策を嫌っているのではない。共産党の名前を嫌っているのです。
『宗教者として平和活動を行いたく、政党を辞めたいといったところ『裏切り者』と言われました」と語っていました。
私は「ああ、共産党に違いない」と思いました』
これは・・・多分日本が好きさんの勘違いですね。
そもそも共産主義思想と宗教心とは根本的な部分が一致しないので、
『宗教者として平和活動を行いたく、政党を辞めたいといった』人物が、共産党員だった可能性が余りにも低すぎるのです。
また、共産党に限らず、脱党者とは政党にとっては、口に出すか出さないかはあるが、残念ながら『裏切り者』なのですね。
現在の、共産党は『宗教を否定してはいない』ばかりか『強硬な態度が微塵も無い』情け無い有様です。
科学的な正しい考え方なら、何かの宗教に走るなど、有り得ない馬鹿話ですよ。
躍進していた昔とは大違いで、今の日本共産党は何とも不思議な話ですが、以前には自分たちが完全否定していた宗教的な慈善活動を恥じることなく堂々と行っているのですよ。
宗教の慈善活動に近い行為をを行っているが、20年以上前では絶対に無かった。
1995年1月17日に発生した阪神大震災で日本共産党が被災民と助けるボランティアとか募金を呼びかけたのですが、これは社会科学の最先端である共産主義とは無縁な発想であり無茶苦茶です。
地元の神戸の共産党が目の前の市民を助けるのは当然であるが、
これとは別に、党本部がボランティアとか募金を呼びかけるなど労働者の利益を守る左翼政党として自殺行為ですよ。
そもそも日本の労働感では正当な働きに対しては正当な報酬が支払われなければ成らない。
ボランティアなどの、ただ働きの勤労奉仕は労働者にとっては最悪の行為ですよ。
被災民を助ける為の募金活動も、日本政府による救援を誤魔化す煙幕程度であり、左翼政党としては最悪の行為です。
左翼が行っては絶対に駄目なのです。
日本共産党が、何故か20年ほど前からキリスト教系の宗教団体モドキに変質しているのですよ。腹が立つ。
昔を知ってる者には考えられない異常事態であり、これでは共産党が勝てるわけが無いのです。
私は若輩者にして、あまり共産党のことを知りません。
でも、「よいことを主張しているのに、人気がない」
というイメージを持っています。
ラジオのある深夜番組を聞いていましたところ、
ある宗教者の方が出演していまして「私はある政党に
所属していましたが、宗教者として平和活動を行いたく、
政党を辞めたいといったところ『裏切り者』と言われました」
と語っていました。
私は「ああ、共産党に違いない」と思いました。
現在、共産党のホームページをみると、「宗教を否定
してはいない」という旨が書かれていますが、どうも
強硬な態度が残っているのではないかと気になります。
また、古参の党員の方は党の方針に少しでも逆らうと
「トロ」と言って逆らった人を虐めるという話も聞きました。
もし、こういうことがあるのなら、是非ともやめて欲しい。
共産党のイメージダウンにしかならないと思います。
そうしないといつまでたっても「共産党は怖い」という
イメージを払拭できないと思うのです。
いいえ。一般党員と幹部の間の両者間の利害の対立です。枝野ではないが『ただちに被害は出ない』のですよ。遅れてゆっくいと出てくる。
確かに、一般党員には利点は0です。
全く何もありません。ところが幹部では違う事実に気が付いていないのでしょうか。?
何とも理解が出来ない、不思議な話ですね。
もしも日本共産党に『民主集中性』なる不思議な言葉が無かったとと仮定して、考えれば誰にでも判ることですよ。
共産党は20年間も全く前進していないのですよ。
因みにそれ以前の共産党は倍倍ゲームに近い勢いで前進していたのですよ。
ところが20年ほど前に突然共産党を取り巻く環境か、あるいは共産党自体の『何か』が大きく変わったのです。
大敗北した参議院選挙を除けば粗横ばいのジリ貧だったが。例外的に特に酷いのは赤旗読者数で粗半数に落ち込んでいるのです。
民主集中制が無ければ、幹部は間違いなく責任を取らされていたとは思いませんか。?
民主集中性の言葉が無ければ今頃は、間違いなく『首』になっているのです。
>『真の問題は、誤った方針是正のプロセスの保障の有無でしょう。』<
このことに付いては全く同感です。
そして『誤った方針是正のプロセス』の最大の障害が何あろう『民主集中制』の言葉の呪縛である事は、みなさんが薄々は全員気が付いているのですよ。
無意識の内に方針を是正する行為自体を自己規制して自粛してしまうのですね。
>『蛇足ですけど、こういう俗論を安易に書いてはダメだと思いますよ。』<
全くの蛇足です。
何故ならほんの20年ほど前までは『正しい『政策』を宣伝すれば勝って当然』だったのですよ。
ですからこの言葉自体は何の間違いも含まれません。
ただ20年前に日本共産党を取り巻く環境が様変わり。大きく世界が変わって仕舞ってのですね。
何が変わったのかですが、
冷戦崩壊から20年目の日本(初めての債務超過)
2011年02月11日 | 経済
アメリカの絶対に終わらない良くできた冷戦が崩壊して、それ以降のアメリカの仮想敵国はインチキ臭いアルカイダではなくて恐ろしいことに我が日本国で有った可能性があるんです。
日本共産党幹部ですが、最悪でこの事実に気が付いていないのです。
蛇足ですけど、こういう俗論を安易に書いてはダメだと思いますよ。
地動説の勝利には長い時間が必要だったこと(真理は、はじめは少数派の認識でしかないというような歴史的事実)などで簡単に反駁されてしまいます。
ではなぜ共産党幹部は『民主集中制』にこだわるのか。?
この言葉は前半の『民主』ではなく、本音は後半の『集中制』にこそ其の本当の重要性があるのではないか。?
民主主義は一般党員の利益に、集中制は党幹部の利益になります。
前段は正しい指摘だと思いますけれど、後段については再考を求めます。
いわゆる「民主集中制」なるものの弊害は、一般党員と幹部の間の、それも両者間の利害の対立を不可避化するようなものではありません。
なぜなら、間違った方針を民主集中制の規約の下で一般党員に押しつけ続け固執することは、一般党員のみならずひいては幹部集団→全党にとっても有害になるからです。
真の問題は、誤った方針是正のプロセスの保障の有無でしょう。
共産党中央の言う「(方針の正誤についての)実践による検証」という弁護論は、いったい何時の段階での「検証」が保障されるのか?
また、幹部集団の執行権の範囲逸脱などをどうやってチェック・是正するのか?等々。
さらには、正誤が厳しく問われる事実判断の問題とは別に、価値判断の多様性という民主主義的課題をいかに保障するのかというような問題もあります。
詳論は出来ませんが、あの建て前は、なまじっか唯物論の認識論を土台にしているだけに、幻想や妄信を打破することも困難なのです。
でも、本物の弁証法や唯物論は、卑俗な実証主義とも経験主義とも異なります。
もっとも、自然科学的世界観に浸透されきって「科学の眼」なるものを大宣伝している現在の幹部連中にはそのへん(=科学と思想の統一、事実認識と価値認識の統一)は理解不能なのでしょうけれどね。
この問題は、共産党の主張に反して一般社会のあり方とも密接に関係するので、ご再考されることを切望致します。
これ別に日本共産党自身の過去の歴史や言動に由来しているものは、有るにはあるがそれ程大きくは無くて、今の一般市民にとっての影響は、実は極極少ないのですよ。
日本共産党員の市長なども何人もいるが概ね好評で別に取り立てて問題点を指摘されたことも無いし、共産党議員の市民相談などの面倒見のよさは定評がある、
日本共産党への悪評のほとんどが実は日本のことではなくて外国がらみの不祥事話なのですね。
日本人一般の反共意識の根深さは無視でき無いレベルなのです。
そしてここ近年の日本の右傾化のひどさも無視でき無いレベルなのですが、この相乗効果で現在があるのですから、共産党の党名にあくまで拘る執行部の責任は免れないでしょう。
ここで今までの戦後の共産党の得票率の推移が、30年ぶりに公式に行われたのですが、ただただ溜め息しか出ないのですよ。
まあ、負けだした辺りから行ってこなかったのですから、今回『行った』ことは評価したいのですが、
何故得票率ではなく得票数の推移をグラフにしないのか。
共産党ですが投票率に影響される事が小さい固定支持票が多いので、との時の選挙の投票率の高低に影響される得票率ではなくて、得票数の方がはるかに正確に党勢を計ることが可能であるのです。
ところが得票数でのグラフは出さないのですよ。また外国共産党の不祥事話もまったく無視ですね。
歴史的敗北で何とかしようとは考えているが根本的な原因は何とか誤魔化そうと必死なのですよ。
既存の幹部達は、事実は知っているのですが、何とかして隠そうとするその心根ではまったく持って改善が見られません。
しかし様々な理由で身分を失ったり、志が高いのに、その「職」にありつけない人も数人知っています。
私は「一党員」になる気もありません。
岩下俊三のブログ2010年8月11日カテゴリジャーナリズム政治
『夏の日の思い出。志位和夫にはじめてあった日。』
に、対するコメントで、札付きの共産党系を偽装する極左のBLOG BLUESブログからの、
2. BLOG BLUES 2010年08月12日 02:53
こんばんは。たかがブログですから、お体に差し障りのないよう、おつづけください。
といいつつ。反帝反スタなんですから、積年の恨みを込めて、民コロ罵倒のエントリが読みたいっす。愛読者の勝手なお願い。
に対する岩下さんの返事、
10. 岩下俊三 2010年08月12日 17:51
BLOG BLUESさま
民青を罵倒したい「私心」はありますが、強烈なゲバルトの記憶があっていまだにトラウマになっています。ゆえに妙にビビッた言い回しをしています。ストレートな批判より批判的だーーなんちゃって。
正直いって「党員」との論争にアレルギーがあります。いけないとは思っていますが、、、。
共産党が大嫌いなのに共産党周辺を徘徊する極左の偽装、BLOG BLUES氏ですが、昔お馬鹿をやっていたのは『笑える話』で、決して問題ではないが、今でも昔と同じ事をやっているとしたら問題でしょう。
しかも共産党支持の護憲左派を偽装しているのですから、上の方に書いた恥ずかしい『オヤジ暴走族』と同じで、見苦しい限りですよ。
暴走族なんてお馬鹿な、ガキの遊びで良い年をした大人がするモノではないのですが、中年のBLOG BLUES氏は、『子供の時のお馬鹿は大人になってもお馬鹿である』と証明するかのごとく、何十年後もあとになって昔と同じことを懲りることなくしていたのですよ。
こんな夢も希望も無いことは止めて頂きたいものです。
これらの阿呆な青少年達のたった一つの希望は『大人になったら賢くなって足を洗い、まともになる』ことなのですよ。
それが『阿呆は簡単にはなおらず、死ぬまで阿呆である』厳しい現実を証明するかのようなBLOG BLUES氏のような人物がいると『最悪』です。自らは意識していないでしょうが、BLOG BLUES氏等は子供達の最後の夢を奪っているのですよ。
此方の言葉足らずを補って頂いて感謝です。現共産党幹部ですが、他党に比べても並外れた高学歴高偏差値集団ですから麻生太郎や安倍晋三のように救いようの無い馬鹿では無いし、もちろん『無自覚ではないはず』なのですね。
十分に自覚しているので『民主集中制』などの言葉をむやみに使わない。
特にマスコミ相手では絶対に使わないと言い切っても良いくらいに注意して使わないのです。
この『民主集中制』の言葉がプラスにはならず逆に日本共産党に打撃を与えているとの認識は十分にあるのですよ。 だから外部では使わない。
内部でも余程のことが無いと使わない『不思議な言葉』であるのですが、この実体は既に無いが化石として残っている言葉が生き続けている原因はひとえに党幹部にとっては無いよりもある方が便利であるのと過去の決定を覆す政治判断の出来る政治家が党中央の幹部に一人もいないからでしょう。
組織や決まりごとを守ることが使命の優秀な党官僚は沢山いるのですが、悲しいかな新しい戦略を構築する政治家には事欠いているのですが、これは共産党一人の問題点ではなくて、日本国全体の問題でもあるでしょう。
今の民主党の体たらくを見ていると『日本に本当の政治家がいるのか?』と不思議になりますね。
今までのやり方ではジリ貧であり根本的な改革が必要なのはみんなが自覚しているのですが、今までの通りの政治を行うしか能が無いのです。
それにしても懐かしいトロッキストなんて言葉が出てきましたが、この用語は『民主集中制』とおなじで、今では共産党機関紙赤旗でも滅多にお目にかかれない古典的な代物です。
今の若い人は知らないかもしれないが共産主義運動でこの言葉は朝鮮語の白丁のような罵倒語で無条件に『極左』=『悪』と認定されていたのですね。
スターリンとの闘争に負けて失脚するのですが、トロツキーの『世界同時革命論』だけを取り出せば確かに極左的な論説であるのですが、実際に赤軍を率いて勝利したのですから極左冒険主義の教条主義ではなかった可能性が高いでしょう。
彼は理論家というよりも有能な実務家であったのかも知れません。
彼らは党の幹部が「反共攻撃」の材料を結果的に提供していることを、知らないほど鈍感ではありません。しかしあえて古参の先輩と党の歴史に波風をたてるようなへまはしません。
宗教も共産主義もドグマ(教条主義)に陥る危険を孕んでいます。でも○○学会の幹部もある思想の党も、組織分裂や自己の地位を危うくするほどのことはしません。賢いのです。
公明党幹部が本気でSGI会長が海外で学位をとったり有名なヒトと会談(英語も出来ないのに)してると信じてるとおもいますか。
どんな会社の会長も社員は皆、尊敬して愛しているでしょうか。
江戸時代諸大名はホントに将軍を尊敬して喜んで参勤交代したのでしょうか。
共産党幹部は矛盾や欠点を無自覚であるとはおもえません。でも多少勇ましいことを言って党勢を拡大し末端党員を鼓舞し、赤旗を定期購読させなければならないのです。
その上であえてそれを乗り越える勇気がないと言っているのです。これは財務官僚も同じです。彼らは人間であることもしっています。でも破天荒な人生を急に送れない人間なんです。
だから政策がいくら正しくとも革命をおこせないんです。お題目なんです。宗教や特定のイデオロギーに嵌るひとと嵌めるひとは、全く違うんです。あえて騙すひとと騙されるひととは言いませんし、思いませんが。
旧陸軍でも、とても左翼的なひとは大勢いました。志井和夫のオジは参謀で祖父は中将であり優秀な軍人であったことは有名です。
枠を超えられない人が出世し、革命を叫ぶのですから漫画としかいいようがありません。
でも体質を哂うのではなく、その体質を改善させるしかありませんが、彼等の頑固さもまた「共産党」なのです。
ですから先ず党改革を。それも本質的な、建前じゃない改革をしなければ党は早晩終わるでしょう。
尚、トラウマがあって言っているのではありません。反共主義者でもありません。トロッキストと揶揄されたことはありますが、トロッキストではありません。誤解なきよう。
「独裁」と言う言葉は、『善悪の意味を含まない中立の言葉である』のは、政治学的に見れば仰られる通りであるのですが、現在の社会での現実問題と見れば如何でしょうか。
確かに古代ギリシャ哲学の最高峰のアリストテレスの師匠であるプラトンは民主主義は最低の政治制度で専制君主による独裁こそが最高と考えていた。
アレキサンダー大王の家庭教師だったアリストテレスもこの考え方を否定していないので同じ様な『独裁』に対する政治姿勢であったと考えられます。
ただ、日本には『忌み言葉』と言うものが存在していて、その中には間違いなく『独裁』や『中央集権』が含まれるのです。
これは間違いないですよ。
この『忌み言葉』の戦後の代表的なものに『戦争』があり、戦争は全て『平和』と言い換えられているのですよ。
広島沖縄などの戦争を記念する公園であるのに、『平和』記念公園などのような良い例があるし、宮崎県の日本最大の八紘一宇の塔が『平和の塔』と名前を変えているお笑いもあります。
これ等の『平和』の文字は、本来『戦争』や『軍事』の意味であり間違いですね。
ヒロシマの平和公園は『戦争公園』であり、宮崎県の塔は『軍事の塔』が言葉の意味としては正しいでしょう。
しかし誰も『戦争』の文字は忌み言葉なので使わないのです。
政治用語としての『中央集権』は戦後の忌み言葉で、使ってはいけない代表例の一つです。
石原慎太郎や小泉純一郎が人気が有るのは彼らがリーダーシップがあるかのように装って大衆の人気をつかんだからです。
決して中央集権制を標榜したからでは有りません。其の逆です
彼等は中央集権の専制政治を目標にしているけれど決して口には出しません。
中央集権制を言えば民衆が反発する事実を彼等は知っています。
それで「民主主義の実現」しか喋りません。
小泉や石原に投票したのは民主主義の強いリーダーシップを求めたのであって「中央集権制」を支持したことにはなりません。
大阪府知事の橋下撤は、中央集権の反対の概念である地方分権を表向き主張しているのですが、実際は大阪市を解体して大阪府に吸収する中央集権の大阪都構想を目指しているのですから全くのペテン師ですね。
中央集権を目指しているものは石原慎太郎や橋下撤のように多いかもしれないが、いまどき世間に向かって中央集権を言うものは共産党以外には誰一人いないのですよ。
共産党以外では『中央集権』は全て『民主主義』と言う言葉と置き換えられています。
其の例外が日本共産党で、未だに使用し続けて、無意味に反共攻撃の種を供給し続けているのですが、何とも腹立たしくもあり情けなくもあります。
一番最初の出だしの言葉が、『反共主義ではない』なので、思わず苦笑してしまったのですが、ご謙遜なさらずとも立派な典型的な『反共』言説の見本ですよ。
『全共闘”世代など学生運動』では、当時共産党系よりも反共の極左諸派の暴力集団の反社会的勢力の方が遥かに多かったのが現実で、その意味では仰られている事は大まかな範囲では同意出来るものですし、
また、『共産主義を信じる狂気』との主張自体も、このブログで取り上げている共産党のカテゴリーの連載記事の主張とおおむね一致しています。
スターリンや毛沢東やポルボトの狂気とは何か。?正に『社会科学の一つである共産主義を宗教的に信じた』為に起こっ必然ではないでしょうか。?
社会科学の一つであるマルクス主義が宗教化する『倒錯現象』によって起こった悲劇であるのです。
しかし、何もこの現象は共産主義だけに止まらず『科学』なんてものは『信じる』ものではないのですよ。
『科学』は、信じた瞬間にそれは『科学』ではなくて『科学教』という不思議な破壊的カルト宗教に変質してしまう性質があるのですが、
この卑近な例では、ブログ界でも2年前に解同系の偽装左翼kojitakenグループが『水からの伝言騒動』という不思議な騒動(糾弾闘争もどき)を起こしています。
このような不思議な『科学教』にしろ政治活動に大きく影響する『共産教』にしろ、色々な形はあれど宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはないのです。
特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うことですね。
その科学の宗教化に貢献しているものがこの記事で取り上げている『民主集中制』という今では実体が無いが言葉だけは残っている化石的言葉であるのです。
他からの検証を拒否した瞬間に、それは『科学』ではなくなるのは地球温暖化人為的CO2説で証明済みであるのです。
中立ですから、たとえば大企業を国有化して、そこで働いていた労働者中心の経営体を作り、「独占資本家」の意見をまったく聞かずに「独裁」経営をするべきというアイデアは、一つの経営案として大いに理があると思います。
それから、たとえば「独裁政権」といってもこれも価値中立だと思います。
何か民青や共産党に対して過去の若いときにトラウマがあるようですが、日本の民主党や自民党、社民党などそれ以外の政党と比べた時には、矢張り共産党の主張の方が断然正しいのですね。
仰られておられる事は政策的な『正誤』の話ではなくて、共産党が主張する時の『態度』の問題点であるのですが、
>『科学的であると信じている宗教なんだと思いました。』<
とはまさに、その通りで的確で『正しい判断』です。
しかも、困ったことに特にネット空間の共産党(党員、支持者?)にはその傾向が特に強いのです。
今の日本人は宗教に関心が薄いとか無宗教であるとか言われているが、実は『科学』を文字通り宗教的に信じる『科学教?』の信者が大勢いるのですよ。
ネット空間ではこの傾向は社会全般よりもさらに増幅されて阪大物理学教授の菊池誠を教祖とする『ニセ科学批判』なんて不思議なカルト宗教まで存在するのですから大笑いです。
マルクスが共産主義を『科学』として確立するのですが、科学ではそれが自然科学であれ社会科学であれ例外なく、他者からの検証が最も大事な作業であるのです。
ところが困ったことに共産党においてはこれがないがしろにされているのが現状です。
これでは宗教化の危険性は避けれないでしょう。
科学の力の源泉は、『普遍性』であるのですから、科学的に正しいから宗教化しないではなくて、科学的に正しいものは、より宗教化しやすいのです。
何故なら、宗教は自らの普遍性を主張しているのですが、宗教には本来その性質上普遍的ではなくて、唯一科学だけが普遍的な存在であるのですね。
『宗教』と『科学』は相反する概念で『全くの別物である』との認識が一般的ですが、実は部分と全体、あるいはコインの裏表の関係のように完全には分離できないばかりでなく共通の先祖を持っていて『人』とチンパンジーのように、違っている部分は極少数部分だけで、それ以外は多くの共通のDNAを持っている。
では、科学と宗教の最も特徴的な違いとは何でしょうか。?
この両者の最も特徴的な違いとは『異端の存在を許容出来るか、出来ないか』ではないでしょうか。?
どんな素晴らしい科学的発明発見、理論、学説でも一番最初は定説(正しい学説)に対する、単なる異端にすぎません。
異端を認めない社会には発展は有り得ないのです。真っ当な科学なら『異端』(異論、反論)の存在は歓迎する。
ところが共産党には組織原則として分派行動を許さない『民主集中制』を標榜しているが、これが共産党が宗教化する最大の根拠(原因)となっているのですが、この事に気づいている共産党党員は困った事に案外少ない。
もちろん、政治活動をする政党と労働者の権利を守ることが使命の労組とは目的も性格も全く違い旧社会党のように自分の手足として勝手に使うことは明確なルール違反です。
ただ仰られている例ですが、その範疇に含まれるのでしょうか。?
派遣労働の全面解禁の結果、今の労働者の状態が凄まじい状態になったの御存知だと思いますが、政党としては情け無いことに共産党以外は全員が賛成したのですが去年の派遣村の惨状を見て『こんなことに成るとは思わなかった』と民主党や社民党の議員が語っている。
この例は社会科学に疎いものが政治を行う悲劇ですが、労組の役割は職場の中だけに限定されず、政治活動も含めもっと大きいでしょう。
労組が個別の問題で政党と合同で運動すること自体は健全であるのではありませんか。?
近代的な国家においては組織された労働者は、実は国家権力よりも上位にあるのだと、ポーランドの自主労組連帯が証明したのですが、情け無いことに日本でこの事実がまだまだ理解できていない。
今の日本のナショナルセンターである連合がもう少ししっかりしていたら現在のような日本の経済状態や社会情勢には成ったいないでしょう。
いいですか、共産党は共産党なんです。すべての言葉は自分をモチベイトするための言葉であり、他者への呪文なんです。だから言葉を分析してはいけなかったんです。科学的であると信じている宗教なんだと思いました。
いいですか、すべての天台宗の僧侶が経典を科学的に分析し納得しているわけではありません。しかし高僧になるために先ずは三千巻の経典を暗記するしかないのです。
共産党の幹部だとえば志井君(委員長)が、共産党の用語がすべて正しいと思っていると思いますか。そうではありません。官僚でも共産党でもいっぱい疑問を抱えながら、それでも既得権と地位保全を確保しているんです。
第二の筆坂になりたくないんです。ここまで上昇していまさら覆せないんです。
学生時代ばかにしていた友人は案の定、代々木の幹部です。トロッキストと呼ばれた僕が最下層の人民であるのに、です。(笑)
彼らはプロレタリアートでは最初からありません。ある種の特権階級なんです。逆らわないで異論を挟まない限り。
いまさら六全共まで戻っていっているのではありません。誤解しないでください。綱領の問題ではなく「生き様」の問題なんです。
でもまだ徳田球一の亡霊は重く幹部にのしかかっているんです。
党が崩壊するより先ず自分なんです。
最近「湘南爆走族」風の暴走族OBらが80年代の旧型オートバイなどを改造して集団走行する「旧車会」と呼ばれるグループが警察に摘発される何とも馬鹿馬鹿しいニュースが報道されていた。
盛大な爆音をまき散らし、数十台の“族仕様”バイクの暴走集団なのですが、この参加者が二十歳前後の若者集団ではなくて30代~40代の中年集団なのですね。
暴走族なんてお馬鹿なガキの遊びで良い年をした大人がするモノではないのですが、この連中の正体は旧車會というオヤジ暴走族で、かつて暴走族だったオヤジ共が『子供の時のお馬鹿は大人になってもお馬鹿である』と証明するかのごとく、何十年後かに同じ格好をして昔と同じことをしていたのですよ。
このニュースを読んだと時には、何故か今の日本共産党のことが連想されて仕舞ったのですね。
古き良き時代にタイムスリップするハリウッド映画「バックトゥーザフューチャー」はバックするのは本人(主人公)だけなのですが、共産党の場合には取り巻く社会の方を「バックトゥーザフューチャー」しようとしている気がしますね。
しかしそれは絶対に無理というものです。幾ら努力しても成功しません。
日本共産党ですが、その『言葉』では今の時代では一般には通用しないのだとの当然の常識が働かないのですよ。
『プロレタリア独裁』をプロレタリア執権に変えるなど首を傾げます。
この用語は、仰られているように『市民主導』の言葉に変えても何ら違和感もなく使用できるし、今のように有権者からの誤解も少ないでしょう。
ところが意味なく小難しい難解な用語を使い続けて、わざと共産党支持者が少なくするよう努力しているような不思議な話なのです。