いつも見ている「内田 樹」先生のブログから・・。
危機対応について、とても納得する部分があったので紹介します。
「内田樹の研究室:バリ島すちゃらか日記」より
・・・・・・。」
若い人たちはほんとうに労働条件が悪く、その中で真剣に「老後」の生活について考えているので、胸が痛む。
「老後」についての予測が割に合うのは、社会のかたちがこのまま推移する場合に限られる。
でも、今の世界をみていると、どう考えても、「社会のかたちがこのまま推移する」とは思われない。
アメリカが没落し、EUが解体し、中国の経済成長が止まったときに、日本社会に何が起こるかを正確に予測できる人間なんかいない。
移行期には、危機耐性のつよいライフスタイルを構築するしかない。
さまざまな職業、さまざまな階層、さまざまな技能、さまざまな知恵を持っている生身の人たちと互酬的・互恵的なネットワークを「平時から」構築しておくのである。
そういうものは「危機」のときに、金で買うことができないし、メール一本で配達してもらうこともできない。
というか、「危機」というのは、「それまでなら誰でも金さえあれば手に入ったものが、手に入らなくなるとき」のことである。
そういうネットワークの構築には長い時間とこまやかな配慮と自分の側からの絶えざるオーバーアチーブが必要である。
それは、植物を育てるように、毎日丹念に手入れして、たいせつに作り上げてゆくものなのである。
自分の生命を託す自動車のエンジンや制動装置や足回りをこまめに点検するのとそれほど違う仕事ではない。「壊れてからJAFを呼べばいい」ということが「できない」ときのための備えなのである。
日本の戦後67年の繁栄と平和がもたらした最大の「平和ボケ」症候は「危機耐性のつよいライフスタイルを作り上げる」ということの必要性を人々が真剣に考えなくなったということである。
みんな「自分さえよければそれでいい」と思っている。「競争的環境」や「格付けによる資源分配」が「できる」ということそのものが「平和と繁栄」のうちにおいてだけであるということを忘れている。
競争や、資源の奪い合いなんか「危機」でもなんでもない。ただの「ゲーム」である。
ルールがあって、レフェリーがいて、ランキング委員会があって、アリーナがあるときにしかそんなことはできない。
危機というのは、そういうものが全部吹っ飛んでしまった後にどうやって生き延びるのか、という切迫のことである。
歴史が教えているように、競争的なマインドの人間は危機を生き抜くことができない。
危機とは「一人では生きてゆけない」状況のことだからである。
だから、それを生き延びるためには、他の人々とある種の「共生体」を形成できる能力が必要である。
論理的に考えれば誰でもわかることだが、自己利益よりも、帰属する集団の公共的な利益を優先的に配慮するという習慣を深く内面化させた人間たちでかたちづくる共生体がもっとも危機耐性が高い。
個人的にどれほど強健であっても、「自分さえよければそれでいい」と思っている人間たちの集団は脆い。疑心暗鬼を生じ、わずかのきっかけで崩壊する。
だから、「危機に備える」というのは、貯金することでも、他人を蹴落として生き延びるエゴイズムを養うことでもなく、「自己利益よりも公共的な利益を優先させることの必要性を理解できる程度に知的であること」である。
いま「 」で括った部分を一言に言い換えると、「倫理的」となる。
現代社会で「喧嘩腰」で生きている人間は総じて「平和ボケ」に罹患していると見て過たない。
穏やかな笑みをたたえて、「袖擦り合う」まわりの人々との互恵的関係をたいせつにしている人の方が、はるかに真剣に危機の到来に備えていると私は思っている。
JAFを例にした「危機」という状態の説明や「危機に備える」ということの方向性が見えたような気がする。
やっぱり我々は「平和ボケ」した、いざという時なんの力もない人間なのだろうか?
「危機とは一人で生きていけない状況」というのがよくわかった。
こんな殺伐とした景色の人間関係にならないように意識したいです。
いかがですか?
危機対応について、とても納得する部分があったので紹介します。
「内田樹の研究室:バリ島すちゃらか日記」より
・・・・・・。」
若い人たちはほんとうに労働条件が悪く、その中で真剣に「老後」の生活について考えているので、胸が痛む。
「老後」についての予測が割に合うのは、社会のかたちがこのまま推移する場合に限られる。
でも、今の世界をみていると、どう考えても、「社会のかたちがこのまま推移する」とは思われない。
アメリカが没落し、EUが解体し、中国の経済成長が止まったときに、日本社会に何が起こるかを正確に予測できる人間なんかいない。
移行期には、危機耐性のつよいライフスタイルを構築するしかない。
さまざまな職業、さまざまな階層、さまざまな技能、さまざまな知恵を持っている生身の人たちと互酬的・互恵的なネットワークを「平時から」構築しておくのである。
そういうものは「危機」のときに、金で買うことができないし、メール一本で配達してもらうこともできない。
というか、「危機」というのは、「それまでなら誰でも金さえあれば手に入ったものが、手に入らなくなるとき」のことである。
そういうネットワークの構築には長い時間とこまやかな配慮と自分の側からの絶えざるオーバーアチーブが必要である。
それは、植物を育てるように、毎日丹念に手入れして、たいせつに作り上げてゆくものなのである。
自分の生命を託す自動車のエンジンや制動装置や足回りをこまめに点検するのとそれほど違う仕事ではない。「壊れてからJAFを呼べばいい」ということが「できない」ときのための備えなのである。
日本の戦後67年の繁栄と平和がもたらした最大の「平和ボケ」症候は「危機耐性のつよいライフスタイルを作り上げる」ということの必要性を人々が真剣に考えなくなったということである。
みんな「自分さえよければそれでいい」と思っている。「競争的環境」や「格付けによる資源分配」が「できる」ということそのものが「平和と繁栄」のうちにおいてだけであるということを忘れている。
競争や、資源の奪い合いなんか「危機」でもなんでもない。ただの「ゲーム」である。
ルールがあって、レフェリーがいて、ランキング委員会があって、アリーナがあるときにしかそんなことはできない。
危機というのは、そういうものが全部吹っ飛んでしまった後にどうやって生き延びるのか、という切迫のことである。
歴史が教えているように、競争的なマインドの人間は危機を生き抜くことができない。
危機とは「一人では生きてゆけない」状況のことだからである。
だから、それを生き延びるためには、他の人々とある種の「共生体」を形成できる能力が必要である。
論理的に考えれば誰でもわかることだが、自己利益よりも、帰属する集団の公共的な利益を優先的に配慮するという習慣を深く内面化させた人間たちでかたちづくる共生体がもっとも危機耐性が高い。
個人的にどれほど強健であっても、「自分さえよければそれでいい」と思っている人間たちの集団は脆い。疑心暗鬼を生じ、わずかのきっかけで崩壊する。
だから、「危機に備える」というのは、貯金することでも、他人を蹴落として生き延びるエゴイズムを養うことでもなく、「自己利益よりも公共的な利益を優先させることの必要性を理解できる程度に知的であること」である。
いま「 」で括った部分を一言に言い換えると、「倫理的」となる。
現代社会で「喧嘩腰」で生きている人間は総じて「平和ボケ」に罹患していると見て過たない。
穏やかな笑みをたたえて、「袖擦り合う」まわりの人々との互恵的関係をたいせつにしている人の方が、はるかに真剣に危機の到来に備えていると私は思っている。
JAFを例にした「危機」という状態の説明や「危機に備える」ということの方向性が見えたような気がする。
やっぱり我々は「平和ボケ」した、いざという時なんの力もない人間なのだろうか?
「危機とは一人で生きていけない状況」というのがよくわかった。
こんな殺伐とした景色の人間関係にならないように意識したいです。
いかがですか?