◆・パンフ・・
◆・お屋敷の縁に腰掛け記念の一枚・・↓。
◆・内田佐七家・・ 《南知多町の文化財・明治初期の建造物。》
★~・内海船を代表する有力船主の 「2代目内田佐七」によって造られる。
~・江戸時代に尾州廻船と呼ばれた海運業で栄え内海の船主の家屋。その面影を今に。
◆・9年前の写真・・同じお屋敷↓。
◆・2007・11/17・初訪問のキネン撮影↑・・ 《今回2度目の見学》
~・当日、5代目フミ子夫人のご来訪あり、撮影にご一緒くださった・・。
★・ネットにに依れば~
~・【内田フミ子は昭和8年に四代目・内田佐七の長男・佐太一に嫁ぐ。安城出身。
~佐太一との間に2男2女。昭和45年までを内田家で過ごす、】・・とある。
★~・【事業家 内田家の嫁として、母親として、主婦として誠実に生き、趣味に短歌、
~・書・華道などに親しむ。 歌人・書家である会津あいづ八一やいちを愛好し
~「 篠島に会津八一」の歌碑建立の糸口を作る。一昨年9月105歳でご逝去。】
◆・蔵の中のひな段飾り・・ 《屋敷の母屋から南東角》
◆・雅なお内裏様・・
★・初代・内田佐七は、文政元年(1818)廻船業を始め、最盛期の幕末には
~・10隻近くの船を所有、江戸-大阪-瀬戸内海の、買積を主とした大船主に成長。
~明治時代に入り、蒸気船や鉄道が発達、経済機構の変化により19世紀末には
~廻船業から撤退した・・。 ~
◆・庭園を眺め主屋へ・・
◆・お座敷の襖・・ 明治時代の絵師「山川真全・画」内海の千鳥ヶ浜の松。
★・内田佐七家は、主屋、座敷、いんきょ、新納屋および複数の小屋と蔵から構成。
~・最も古い主屋・座敷部分は、棟札や古図などから明治2年(1869)に竣工と確認可。
★・ 屋敷構えは庄屋格相当の規模と格式を備え、廻船主の屋敷として数少ない貴重な遺構。
◆・扁額・・ 天井板も高価な屋久杉が・・
◆・天袋の小襖絵・・!! 《見事な大和絵!》
『今日の一首』
~【江戸の世の廻船 船主「佐七翁」
富と権勢 住まひに見たり】~
◆長押の飾り・・
◆・備前焼?でしょうか?
◆・風情ある座敷の前庭・
★~・主屋座敷の南屋敷には座敷「上の間」「次の間」の南側にある主庭、及び北側の
~・「茶の間」に面する小庭と↑の主屋の前庭、合計で3つの庭がありどれも一級。
~【京都から運ばれた、鞍馬石の沓脱石、小田原からの根府川石、灯籠が3基も・・】
◆・主庭の張り出した露台・・
『今日の一首』
~【灯篭は なまこ壁に二基添ひぬ
武士の館と見まごうばかり】~
★~・端正な手水と石灯籠とが主景を成し、津藩の藤堂家から贈られた鞍馬石に
~根府川石をはじめとした大振りの庭石の存在感に圧倒される、(ワタクシ石好き)・・。
★・~主屋の前庭は、かつては塀で仕切られた小庭。 縁の前にある四角の立ち手水は
~回転する珍しい仕組みになっており、屋敷が使われていた当時は、季節に合わせ
~模様を変え、楽しんだと・・。~
◆・井戸・・ つるべ~手押しポンプへ、と歴史が・・今でも水は豊富に汲上げる事が可能。
★~・「にわ」と呼ばれる土間にはかまどや、井戸が設けられ、炊事や仕事場に。
◆・かまど等・・
★~・かまどや井戸が、当時の生活が伝わってくる・・。
◆・土間を挟み板の間の台所・・
◆ミシン・・ 当時、女性の憧れ・高嶺の花のシンガーミシンが置かれていた。
【次回へ続きま~す・・~】
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