takubonpapa blog

 日常の出来事や感じたこと、Mac、バイク、キャンプ、さだまさし等について書いてます。

朝まで生討論か?

2012-07-22 23:02:05 | 教育
 子ども会恒例の夏のイベントを開催した。例年だと海に行ってたんだけれど津波と原発事故の影響で太平洋側の海水浴場はどこも閉鎖になり、昨年からボーリングに行って夜は集会所で焼き肉を食って花火という流れになった。今年は新たに集会所の広場にテントを張ってキャンプをしようということになった。キャンプはオレの得意分野だし、翌朝は朝食をとらないでそのまま撤収ということだったので初めての取り組みとしてはうまくいった。

 そして子ども達が消灯したあと、大人達は焼き肉の鉄板を囲んで呑み続け、世間話が討論になり、朝まで生テレビ状態になっちまった。よく覚えてないのだけれどオレの主張がことごとく受け入れられず歯がゆい思いをしたことだけは覚えている。自分の考えとムラに生きている人たちとの考えの違いを知る貴重な話だったので記憶を辿りながら整理しておくことにする。

いじめの構造をどう見るか
 大津市のいじめによる自殺問題が世間を騒がす中で、学校で働く者としてどう考えるか聞かれた。学校としてはいじめは常に起こりうるという立場で子どもに接し、いじめ(差別)を絶対に許さないというメッセージを送り続けなければならないと思っている。しかし子ども社会のいじめの構造は、新自由主義による大人の世界にはびこるいじめの構造が、より陰湿な形であらわれているに過ぎないというのがオレの立場。だから大人社会のいじめ(差別)の構造がなくならない限り、子どものいじめはなくならないと考えている。大人も子どもも差別されず自由に生きられる社会でなければ本当の幸福は訪れないんじゃないかな。
 この意見には概ね賛成してもらえたような、、、。

働くということはどういうことか
 働くということは単に給料を稼ぐということではなく、働きがいや働く喜びを感じることが大事なのではないかというオレの考えに異を唱えたのは、工場のラインで働く先輩。曰く「働くということは苦役でしかなく、自分のため家族のために割り切って一定時間ガマンすること。」らしく、高度経済成長を支えた労働者はみんなそうだったと言う。オレの言い方はそういう労働者に対して無礼だと言われちまった。世代間ギャップは否めないが、オレはそれであってもいわゆるカイゼンとか何かしら働く喜びがなければつまらないし、つまらないから若い世代がすぐに仕事を辞めてしまうんだと考えているからどこまでいっても平行線なのだが、現実は先輩のような労働者が多数派なのかもしれないと考えさせられた。

正規雇用の仕事の質とは
 酔いが回ってきて話はどんどんヒートアップして行くのだが、「正規雇用労働者が非正規雇用労働者と同じ仕事をしていたら、みんな非正規雇用でよくなってしまう。」という発言をしたら、それは仕事ができる人の立場で、組織の中には仕事が遅い人が必ずいてそういう人を排除することにつながり、自らいじめの構造に身を置くことにならないかと言われて、ハッとしながらもホッとした。
 そして正規雇用労働者並に仕事ができる非正規雇用労働者を非正規のまま低賃金で働かせていることが問題なのだということ。組織の中には色々な人がいて丁度良いのであって、仕事が速い人も遅い人も助け合って共に生きられる社会を目指すべきだということを考えさせられた。

学力とは
 「ムラで生きて行くためには学力よりも声のでかさだ。」ずいぶん酔いが回ってきて思わず口から出ちまった。ストレートに受け止められ、ムラ社会の現実を知っている先輩達は、それそのものがムラ社会のいじめの構造で、声の小さい人は狭いムラの中で一生声が小さいまま生きなければならない。オレだってそんなムラ社会はぶっ壊してやりたいと思う。誤解を受けたので「ムラで生きて行くためには学力よりも人望だ。」と言い直したらちょっとは受け入れられた。
 学力も学歴もあって社会的地位もあるが人望がなければ、その人のまわりに人は寄り付かない。そういう人がお堅い公務員に多く、オレはそういう公務員にはなりたくないと昔から思っていた。だから見栄ははらないし、バカになるし、常に自然体でいるようにしている。

 「学力は塾にまかせて学校には期待しない親が増えているから、学校は危機感を持たなければならない。」という校長がいた。オレは直感的にこの人は学力や学歴にコンプレックスを持っているんだなと感じて、議論する気にもならなかったから本意はわからないが、学力競争や学力向上政策の上を走らされ塾講師と同じ土俵に立っているのではないかと思った。学校が子どもに学力をつけるのは当然だが、子どもを点取り競争に駆り立てる場ではないと思う。そもそも学びから逃走する子ども達にどうやって学ぶことの楽しさを伝えるのかというレベルで、オレの偏見かもしれないが塾講師と違って子どもが背負ってくる家庭の背景や苦しさやムカつきまで受け止めるのが学校だと思う。楽しく分かる授業をすれば子どもはついてくるという主張もそれはそれで大事だけれど、それ以上に集団の中で生きていく術や、人との間合いの取り方や、差別を許さない正義感や、困難にぶち当たった時にどうやって解決して行くかという知恵、つまり自分の頭で考え行動する力をつけることの方が重要だと思う。それがつまりムラで生きて行くためには学力よりも人望ということなのだ。厳しい学力競争を生き、学校よりも塾に期待する親がいるかもしれないが、オレのまわりにはいないな。
 この思いは3.11以降さらに強くなった。被災地フクシマで生きて行こうと決めた時、受験学力をつけてムラやフクシマから出て行ってしまう人よりも、フクシマに生きムラを支え、様々な困難を乗り越えて復興を担って行く人がフクシマには必要だと感じているからだ。

 自分の子ども達がどういう生き方をするかなんて親であってもわからないし、子ども達がムラに残るとも限らない。ただこの思いだけは難しいが言葉ではなく背中で伝えたいと考えている。

 ただの酒飲み話から、ずいぶんでかい話になっちまった。
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