先日、放送大学のエントランスで、休憩のため出てこられた教授と、つい立ち話をした。最近の農作物の話題となり、稲作についての話から、昔、この周辺は米作りには向かない気候だったので、主に粟(あわ)や稗(ひえ)など冷害に強い穀物を作っていたようだ。稲作は時々飢饉が来てたいへんな時代だった。
科学の進歩は品種改良技術をもたらし飢饉を招くような不作は克服できた。大事なのは原種を保存しつつ、品種改良はその原種を元にしてして、改良すべきで、改良種を元にした改良は良くない遺伝子を時おり顕在化する危険があるとのこと。
古来より、生物は人間に自然界の脅威をいろんな形で警告してくれていた。魚や鳥は不思議な力で危険を察知して、人間はそれを見て身に迫る危険を感じ避難したり、食べるのを避けたりしてきた。原始的な生物ほどその察知能力に優れている。人間が他の動物と違うのは、文字を使うことが出来る点で、その代わり過去の記憶を持続できない欠点がある。他の動物は文字を使えないので、記憶力に頼るしか術はない。文字を発明した人間は、後で読めばいいから記憶を重要視しない。
そうした意味で進化しない「種」は大事なものを温存していると言える。最近猪が集落に出没し農作物のみならず、人間にも被害が出ていると報じている。人間社会への警告なのか。直観力の鈍くなった人間はとんと理解できなくなっている。
アユ釣が好きな私としては、病気になりにくく、すぐ釣れる魚が理想だ。年々の河川水質の悪化に伴う、魚の病気「冷水病」に罹りにくい種、アユ同志の縄張り争いの習性を利用して釣る、友釣り向きの闘争本能の強いアユの種苗を生産して、河川に放流して欲しいと自分勝手に考えているが、生物の多様性という観点からは、大層に危険なのだそうだ。
そうした人工的な改良による品種は、自然環境の変化にすごく脆弱で、予期せぬ変化に、種全体が滅びてしまう大きな危険がある。
人間本位のわがままな改良は、時には、自然を冒涜した報いとして、深刻なしっぺ返しをみまうのだ。自然の偉大さを認め、自然を敬いながら暮らすことの重要さを認識させていただいた。社会や家庭内でも、お互いの多様性を認め、ナチュラルに暮らすことが生きやすいと感じるこの頃である。
今朝のウオーキングで見つけた花