梅雨入りしてから好天つづきで熱中症注意報がでているが、
今日の北遠地方は梅雨時の雲天を思わす天気となった。
私は運動不足解消にヤマタケの蔵から二俣城へ散歩に出た。
徳川信康廟のある清竜寺を過ぎて二俣の町を見下ろしながら
二俣城へ向かう山道を歩く道すがら青年期に読んだ歴史書を
思い出していた。
戦国時代、今川、武田の領地をへて徳川の城となった二俣城の城主には
家康の有力家臣が城主になった。
天正3年、家康は大久保忠世を城主とした。
大久保家は三河岡崎の土豪で早いころから松平氏の家臣になっていた。
大久保氏は、松平氏の譜代の家臣であった。
忠世は大久保忠員の長子として岡崎に生まれ、初陣は三河の国渡村の戦いで
これを皮切りに数々の合戦に参戦、三河一向一揆、遠江国掛川城、
元亀3年の三方原合戦、浜松城下犀ヶ崖の襲撃など鮮やかな戦歴の武士であった。
二俣城主となった大久保忠世は北遠地方に残る武田方の最強の勢力
天野氏を駆逐して、家康の遠江平定も高天神城を残すだけとなった。
高天神城は武田氏の遠江における最後の砦であったが大久保忠世は
これに参戦して落城させた。
その後、大久保忠世は二俣城主として15年間二俣にいて
二俣城に天守台を構築したり、城山と離れている鳥羽山城は
忠世によって別郭一城として改築されている。
大久保家と言えば、テレビ映画でおなじみの大久保彦左衛門がいるが
彦左衛門は忠世の弟で、幼少から家康に使え、天正4年犬居城(浜松市天竜区春野)
攻めの初陣の時には二俣に居たと思われる。
以来、大久保彦左衛門は忠世や兄を助けたと言われる。
などなど昔読んだ二俣城の物語を思い出しながら歩くうちに
二俣城天守台跡についたが、北方を眺めれば大久保忠世が活躍した
北遠州の山々も梅雨時の雲に覆われて霞んでいた。(つづく)