魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

◆◆【我「老子」の私見を綴る】◆◆順化第五十八

2012-06-08 14:51:19 | 学問

順化第五十八

其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民欠欠。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲訞。人之迷、其日固久。是以聖人方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不耀。

その政悶悶たれば、その民醇醇たり。その政察察たれば、その民欠欠たり。禍は福の倚る所、福は禍の伏す所。たれかその極を知らん。それ正なし。正また奇となり、善また訞となる。人の迷える、その日まことに久し。ここをもって聖人は方にして割かず、廉にして劌らず、直にして肆びず、光りて耀かず。

政治に参与する者が世間に彼是と深く干渉しなければ、人々は暮らしを安定させる為人それぞれそれなりに働いて日々安楽に暮らし、その結果、人に善行を重ねる余裕も生まれ、天下泰平の世と生すものだ。もし政治に参与する者が総てのことで些細なことも見逃さ無い法を造って人々を縛り付ければ、庶民は大く知恵を働かすことも無く小賢しく狡猾に生きる知恵ばかり身に付けてしまうのだ。福の中にも災いがあり、災いの中にも福があることもあるが、一体誰が「大道」のこの“極み”を探り当てることが出来ようか?正しいと思って為したことも人に害を為すこともあり、善意で為した行為も悪い結果を生むこともある。こうしたことへの人々の戸惑は、「大道」に導かれた「ものの道理」が余りに高遠過ぎて理解出来難いものであり、人智の及ぶものでないことから生まれるのである。それ故、聖人の正しきは、善悪を判断せず、何事にも先ずは人を鋭く追い込まずに傷つけることが無いようにと配慮し、大らかにして尚且つ目配りは怠らずの姿勢を貫くことで、目映く輝きを発しつつも、その輝きで人の眼をさすことも無いのである。


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