二、強兵の方法(その①)
王安石は国を豊にすることに依って財政の立て直しを図ったが、同時に軍を立て直すことも忘れ無かった。兵器を監理する等の保甲法、そして将兵法、或いは馬法等の法令を設けた根本の目的は、軍の強化を実施するためであったのだ。
宋の軍隊が夷狄と較べて戦力が劣っているということは誰も周知のことではあったが、十闘って九負けるという体たらくであり、極端な戯言として、或る敵などは宋軍と交戦することを喜び小躍りしたという程であった。このような軍隊の弱さは太祖の時期に植え付けた方針が禍根となって残ったものだったのだ。可笑しなことに、宋軍の戦力の弱体化は朝廷が技と齎したものだったのだった。唐朝末期の五代の時期に節度使が割拠した為、兵が驕り横暴に成り、続けざまに軍事が反乱を起こして、天下は度々は乱れたので、不測の事態を免れようと、宋太祖は技と軍隊の戦力を弱める為、兵は将と結ばず、将も兵と結ばず、戦力を損なうことが無い程度に相互が牽制するようにしたのだ。更に宋軍の大本営が狡賢くて強引なごろつきの集まりと化して仕舞っていたのは、朝廷が軍の反逆を恐れて、意識的に遊び好きで怠け者の将を使い、更に好戦的で強暴な創世期以来の世代の輩を軍の中に組み入れ養ったのは動乱を免れる意図があってのことであり、結局、宋軍は戦争に用いるのでは無く、元はと言えば対外、内部双方の動乱を免れるように編成したものであったのだ。根本はどの様に外敵を防ぎ止めるかと言うことでは無く、宋太祖が最も心配したのは如何にすれば軍隊の反逆を完全に抑え、趙家の国家を万世に伝えることに心血を注いだのであって、考慮したのは一家一姓の利益で、根本は国家利益をさて置いて考えていたのだ。そこでこのような軍隊の初期の目的は粗達成されたが、反乱することに注意を傾ける余り人民の財を浪費するだけのものと成って仕舞い、このような軍隊の戦力が頼り無いのは必然で、外敵とあっては逃げ惑い、全く国民と国の防衛の責務を果たすことが出来無かったのは当然のことであったのだ。
現代の問題として政党政治が国民の福祉より政党を一義にするのと大いに似た考えであったと謂えよう。
財政の支払いの大半が軍事費が占めていたことを考えれば軍を統制整備することと財政の立て直しは相通じるもので、軍隊を整理し無い以上、財政建て直しは出来る訳も無く、富国も目指せず、何としても、軍隊が財政を食い潰すことを止めなければなら無かった。常に敗戦する弱い軍隊が、敗戦する度に兵員や物資の巨大な損失を齎し、このような軍隊を抱えていても、敵を防ぐどころか前線や辺境の地では常に敵の侵入を許し、騒擾を引き起こし、人民は安らかに暮らし楽しく働くことも出来る筈も無く、生産力を増強しようなぞ全く不可能で、経済の損失も予測もつか無いものと成っていたのだ。
軍隊を整理するのは全く微妙な問題を含んでいたので、上手く処理をしないと大乱を引き起こすこともあり得た。既に鄞県知事の時に、王安石はこのことに多大な関心を持っていたのだ。当時、軍隊の規模が巨大なものとなって仕舞っていたので、皇祐元年(1049)、宰相の文彦博は、枢密使に兵を減員することを打出し、禁軍を削減することを提案したのだが、王安石にはこのことを書いた《省兵》一詩がある:
兵を減らせという人は言うが、兵を減しても行き場が無いのだ。目下のところ解決策は無く、ただ兵を辺境に追いやるばかりだ。
前線で攻められ破れて散り々になっても、後方の守りは堅牢だ。衆を頼んで力不足を補い、危なっかしいが未だ安心していられるのだ。
将はとっくの昔に力不足で、和議にも応じる能力も無い。兵を傷つけ無い事に拘っていては敗戦を免れず、胡来たりて秦川は侵奪されて仕舞う体たらくだ。
こんな状況なので、その上兵を省いてどういう結果になろうか?驕り昂ぶる怠惰の習が余りにも久しく、如何して田に返すことが出来ようか!
田も無く桑も無く、衣食も兵士であってこそ足りるのだ。兵を省く理が通る時では無く、兵の整理を行うには状況が悪過ぎる。
君主の功とするところは決議文を起こし、古く七月に一篇あり。多くの官僚は勤勉節約を慈しみ、労する者は一息つけた。
遊民が草野を慕っても、収穫する術を知らない。職に就すにせよ、兵を省くには長い年月がいるのだ。
兵は農業と互いに依存し合っていたのであり、兵は百姓からの出身者が多く、本来、農家が軍隊を維持していたのだが、軍を設けて外狄を征し治安を守るのは農業を守ることを目的として、農民と農業生産物が犯されることが無い様に保証するものであったのだ。古の昔から兵農一致であって、戦う時は兵として、耕す時は百姓であったのだ。志願兵を募集するようになると、応募して兵隊に為った大部分が遊び人の輩か或いは生計の道が無い貧民で、要するに全てがごろつきみたいな労働者階級の者達であって、その上、地方の反乱や或いは不測の謀議を抑える意図からも小吏をも軍の中に召し入れる必要があったのだが、これらの輩は従軍しても、夷狄を制圧し国内の安全も確保する能力は無く、徒に国費を貪るだけで、農業資産をも食い潰し、農民の負担は限界を超え、更に、災害による凶作があると、貧民の衣食は足りるべくも無く、政府も救済することが出来ずに、結局、軍の中に組み入れる外無かったのだ。このように兵は益々多くなると、農民は益々少なくなり、農民負担は日増しに重く圧し掛かり、官が軍隊を維持して、養って、僧をも養ってということになると、一夫で十人の食の為に耕すことになって仕舞ったのだ(わが国の年金問題のようだ)。宋の禁軍はこのように悪質に膨張し始めていたので、狡賢くて強引な禁軍の戦力を満たすには非常に状況が悪く、更に戦闘能力が酷いものだったことから其れに見合う兵員を必要としたが、兵員の数を多くすればするほど戦力は亦落ち、解決する術の無い悪循環となっていたのだ。
王安石も、軍隊の戦力を高めることが出来無い現状にあっては先に兵員の省減なぞ言い出せるべくも無く、質の悪さを員数で補うしか無く、其れすらし無ければ敵を防ぐ手立てが無いと考えていたのだ。其の上、既得権に胡坐を掻く驕りと怠惰な慣習を身に付けた連中に、行き成り畑を耕させることは到底出来ず、強行に改革しようとしても旧習を変えることは難しく、出来たとしても一時的に変わるだけで、彼らを養わ無ければ泥棒と為って盗みを働くのが落ちなのだが、沙理とて無駄な養いを続ければ、あっちこっちに大きな弊害を招き続けるので、この者達を少減していくことしか手は無かったのも確かであった。それではどのように問題を解決するのか?王安石は同時に二案を提出して、一つは選軍によって統制と整備をして、軍隊の戦力を高め、質で量に勝らせることとし、二つ目は農民の負担を軽減する為に、兵隊が嫌いで農業に従事したい者達を募って土地を開墾させれば、遊民の数を大いに減らすことが出来るので、兵士の定員は自然と少減出来ると考えたのだ。
王安石は、軍隊の資質を高めたかったので、「将は兵を知らず、兵は将を知ら無い」現状を改革し、兵と将とを互いに連携させようと、兵に規律を科し、職分を確定することで、上から下まで堅く心を合わせて協力し合い、団結力を持たせてこそ初めて戦力も高まるのだと考えたのだ。此の目的を実現する為には兵法を縦横に駆使することが、大いに役立つとした。
百戦錬磨の戦闘経験がある専門家から学ぶ兵法に依って旧来の禁軍編制を打ち破って、兵を愛し民から慕われる将軍に部隊を統率させ、その管轄区域を比較的固定化し、副将官を設置し、副将官に全て割り符を持たせ、その職権と威信を増加させ、更に将校の下にいる者達の為の訓練官の制度を常置し、専ら軍事訓練の責任だけを負わすことを目論んだ。兵の多寡に拠って部隊や小隊を編成し、少尉や下士官には後方で護衛・監督させたのだ。将に、兵法に則り将と兵との違いを明確にしつつ、軍事訓練をも強化して、軍隊の戦力をも高めたようとしてのだ。
王安石は宋軍が「会議ばかりに固執し能が無い」と読んで、省兵にとって肝心な点は将を選ぶことだと感じていた。選ぶにあたって、王安石は必ず軍人は私見を持っては為らず文武両道に優れなければならないと思っていた。《上仁宗皇帝言事書》で、彼が「士は先王に文武を兼ねて学んでいなければならない」と指摘した時には未だに武事を学ぶ者が無かったが、「文武を学んだ各級の官吏は全て文武両道に優れることになるので、平時には官吏として、一度変があれば将とし、辺境、宿衛、総てを士大夫に担当させることが出来るのだが、目下のさころ文武は分化していているので、武官は短文しか書けず、軍中の兵は全て文語も分らず、礼節も知らず、闘っては覇気が無く、品行も良く無いと文士は武の恥を論い、辺境、宿衛のような重任をこのような輩に任しては、如何して安んじていられようか」と嘆き、その為「軍隊の資質を高めるのに肝心な点は軍隊の教養を高めることにつき、文武両道に優れた者を多く育成して軍隊に担任させる必要があるのだ」と認めたのだ。煕寧五年(1072)に仁宗が復権した時、軍事の専門家を育成する制度を一度設けたが、直ぐ武学を廃棄するように戻って、文武両刀の官吏の中で知兵の者を選んで教授を担当させ、官吏は食費をあげることを条件に武劇の二枚目役者を募集して、兵法を以て戦略を勉強させたのだった。
王安石は知略と勇気は同じ位重要だと思っていたので武将も兵書で戦略に精通するべきだと考えた。そこで彼が科挙関する武についての試験に対して墨義の一科を設けたことに不満をもったのは、文官が本を暗唱するのに多少は役に立つと思っていたのだが、武官が兵書を暗唱しても、文章の中味を知らなければ何にも意味が無く、従軍の経験も無く兵書を幾つか読んだとしても武芸の研究ばかりをして人よりも多くの武芸に精通する武士を招く方が益しだと考えていたからだ。彼は更に如何しても武士を選ばなければ駄目だとは限ら無いと思っていたので、文士でも知兵の者であれば選ぶことが出来ると考えていた。彼は断固として元来文官の王韶が適任であると支持していたのだが、王韶はついに煕河の奪回を為し、比べる者の無き大いなる偉業を完成させたのだ。
王安石は傭兵制の弊害を詳細に調べていて知っていたので、一歩一歩禁軍の兵員を減らして、古代の兵農一致の制度を回復して、訓練を経た民兵を入れ墨の兵(顔に字をいれた職業軍人)に協力させることを考えて、彼は保甲制を推進することを頻りに主張したのだ。
古代には多くの者が社会治安を守ることに役立つとの考えが主流を占めていて保甲制は当然支えられるべきだったのに、後世に措いては評価が一様で無く、同じようなも問題を抱えているにもにも拘らず、相反する角度から考慮され、現代では保甲制が人民の自由を制限したものと考えられ、多くの批判を受けて、封建制度の独裁を守るものだと評価されているのだ。実はこの問題に対しては弁証法的に評価するべきなのだ。
其の一として、王安石が推進する保甲制の本意は、決して国内の鎮圧を強化するものでは無く、同じく人民の自由を制限する為のものでも無くて、その目的はただ兵農の一体化する制度のみを回復したくて、兵に農業をさせ、農業を害しない限りで軍隊を維持させ、軍隊の戦力を高めて、軍事費の支払いを減らして、財政の困難を解決して、富国強兵の根本的な目標を達成したかったのだ。
其の二として、近代の観点からすれば、自由は最重要の権利で、どんな法体系に関わらず、人民の自由を害するものであるならば、絶対に排除されるべきもので、廃止されるべきとされる。然し、生存権すら保障されて無い情況の下にあっては、人民の人権が無視された古代にあったとしても人民の生活の安定は保障してあげなければならず、生命と財産の安全を保証は優先されるものであったのだ。保甲の制度は封建官吏と地主の利益を保護するものでは無く、貧しい農民の利益を守ったのだ。
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