東京招魂社建立
幕府によって誅殺された志士の慰霊は幕末から明治時代に懸けて重要な課題だった。文久2年(1862年)5月25日、真木和泉守が楠公祭で池田屋事件の殉難者を神式で祀り、殉難者を祀った最初と云われた。
文久3年(1863年)7月、津和野藩の国学者福羽美静等は京都祇園社境内に祠を創建した。安政の大獄等の殉難者46柱を祀る為だったが、此の小祠は幕府をを憚り壊された。霊璽は福羽家に移され、祭祀が続けられた。福羽家に造られた小祠は後に國神社に移されてが、此れが「元宮」である。
文久2年(1862年)、長州藩は孝明天皇に尊王攘夷派の志士の赦免を上奏す。孝明天皇は認め、幕府に尊攘派志士を赦免し、招魂祭執行の認容を命じた。同年12月、諸藩の志士達も集まり、京都東山霊山で尊攘派志士の招魂祭が営まれた。
文久3年(1863年)、長州藩は尊王攘夷の為下関砲台から米国の商船を砲撃した事件を記念して下関に奇兵隊が管理する招魂場を建設する事を高杉晋作によって発案され建立に至る。
慶応元年(1865年)、下関桜山に招魂場が建設されて長州藩が招魂祭を営んだ。此の招魂場の最初の招魂祭には奇兵隊全員と若き日の山県有朋(山県狂介)も参列。加えて、長州藩の支藩長府藩、清末藩の藩兵も参列。
最前列中央には吉田松陰の墓碑が、その周囲には隊士のための小さな墓碑が建てられた。
更に長州藩は領内各郡に招魂社を1ヶ所ずつ設け、16ヶ所の招魂場が藩内に建設され、春秋に祭典が行われた。楠公祭では殉難した長州藩士の御霊も慰霊顕彰の対象と成った。
戊辰戦争では官軍兵士約3500名が戦死した。戦没者は萩藩、津和野藩の国学者の提唱により、神式で祀られた。政府は戊辰戦争戦没者を各戦地に埋葬し、其の側に招魂社が建立されることもあった。
慶応4年(1868年)閏4月28日、東征大総督有栖川宮熾仁親王殿下は書状に戦歿将兵のために招魂祭を行うと記されました。
太政官布告 慶応4年5月10日
「文章略」
結果、ペリー来航癸丑の年、嘉永6年(1853年)からの「国事殉難者の忠勇を賞賛し、京都東山にて神として祀る」ことが決まった。
然し、殉難者の名簿作成には時間が掛かる為、二度変遷があり、先ずは慶応4年正月以降の戦没者から先に祀ることにした。
東山に神社を創建するに先立ち、慶応4年7月10日、11日の2日間に渡り、京都川東操練場にて政府主催の招魂祭が行われた。32藩374名の戦没者の御霊が招魂された。
明治元年(1868年)、政府は殉難志士、戊辰戦争戦没者を御祀りした神社を京都に建立すると布告し。後の「京都霊山護国神社」と成る。
明治2年(1867年)、東京に招魂社が建立されることに成った。
此の建立場所については木戸孝允と大村益次郎とに意見が対立した。
次に九段坂上三番町通元歩兵屯地跡が社地の候補に挙がりました。明治2年6月12日、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下は軍務官副知事大村益次郎等に九段一帯の検分を命じた。大村等は此の地に招魂社を建てるべきと上奏した。こうして九段に招魂社が建立されることになりました。
明治2年6月19日、招魂社の仮本殿、拝殿が起工。6月23日、軍務官は同月29日から5日間に渡って招魂祭を行うと諸藩に通達。
明治2年6月28日、明治天皇は皇居神祇官代にて祭典を執行。八百万の神々に日本の平和を祈られた。その際に用いられた鏡は招魂社に奉納され、今日も國神社の御霊代として大切に受け継がれている。
明治2年6月29日午後2時、霊招の式が行われた。大村益次郎軍務官副知事が本殿下段に着座。大村は奉幣使から勅幣を受け取り、勅使に捧げた。勅使は勅幣を神前に納め、祭主の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下が拝礼し、祝詞を奏上。政府高官が続き、太政大臣三条実美も祝詞を奏上。祝砲が撃たれて式が終わり、神饌は下げられた。
こうして明治2年6月29日、「東京招魂社」が鎮座した。
招魂祭は7月3日まで続いた。招魂祭最終日は昼夜に渡って花火が打ち上げられ、明け方まで相撲奉納まであり、お祭り騒ぎは続いたと云いわれ、其の後も、例祭祝詞 明治2月9月に至る迄祭事は続いた。
第1回合祀祭では戦没者3588名が合祀された。元治元年の蛤御門の変で討死した会津藩士も合祀されてる。東京招魂社の祭日は1月3日(鳥羽伏見の役)、5月15日(彰義隊潰走)、5月18日(函館陥落)、9月22日(会津藩降伏)と定められた。また、6月29日は御創立記念日祭が行われました。
また、鎮座祭には遠州報国隊、駿州赤心隊が奉仕。このうち62名が招魂社社司と成った。
続く(次談は「(招魂社☛靖國神社②)」である)。
幕府によって誅殺された志士の慰霊は幕末から明治時代に懸けて重要な課題だった。文久2年(1862年)5月25日、真木和泉守が楠公祭で池田屋事件の殉難者を神式で祀り、殉難者を祀った最初と云われた。
文久3年(1863年)7月、津和野藩の国学者福羽美静等は京都祇園社境内に祠を創建した。安政の大獄等の殉難者46柱を祀る為だったが、此の小祠は幕府をを憚り壊された。霊璽は福羽家に移され、祭祀が続けられた。福羽家に造られた小祠は後に國神社に移されてが、此れが「元宮」である。
文久2年(1862年)、長州藩は孝明天皇に尊王攘夷派の志士の赦免を上奏す。孝明天皇は認め、幕府に尊攘派志士を赦免し、招魂祭執行の認容を命じた。同年12月、諸藩の志士達も集まり、京都東山霊山で尊攘派志士の招魂祭が営まれた。
文久3年(1863年)、長州藩は尊王攘夷の為下関砲台から米国の商船を砲撃した事件を記念して下関に奇兵隊が管理する招魂場を建設する事を高杉晋作によって発案され建立に至る。
慶応元年(1865年)、下関桜山に招魂場が建設されて長州藩が招魂祭を営んだ。此の招魂場の最初の招魂祭には奇兵隊全員と若き日の山県有朋(山県狂介)も参列。加えて、長州藩の支藩長府藩、清末藩の藩兵も参列。
最前列中央には吉田松陰の墓碑が、その周囲には隊士のための小さな墓碑が建てられた。
更に長州藩は領内各郡に招魂社を1ヶ所ずつ設け、16ヶ所の招魂場が藩内に建設され、春秋に祭典が行われた。楠公祭では殉難した長州藩士の御霊も慰霊顕彰の対象と成った。
戊辰戦争では官軍兵士約3500名が戦死した。戦没者は萩藩、津和野藩の国学者の提唱により、神式で祀られた。政府は戊辰戦争戦没者を各戦地に埋葬し、其の側に招魂社が建立されることもあった。
慶応4年(1868年)閏4月28日、東征大総督有栖川宮熾仁親王殿下は書状に戦歿将兵のために招魂祭を行うと記されました。
太政官布告 慶応4年5月10日
「文章略」
結果、ペリー来航癸丑の年、嘉永6年(1853年)からの「国事殉難者の忠勇を賞賛し、京都東山にて神として祀る」ことが決まった。
然し、殉難者の名簿作成には時間が掛かる為、二度変遷があり、先ずは慶応4年正月以降の戦没者から先に祀ることにした。
東山に神社を創建するに先立ち、慶応4年7月10日、11日の2日間に渡り、京都川東操練場にて政府主催の招魂祭が行われた。32藩374名の戦没者の御霊が招魂された。
明治元年(1868年)、政府は殉難志士、戊辰戦争戦没者を御祀りした神社を京都に建立すると布告し。後の「京都霊山護国神社」と成る。
明治2年(1867年)、東京に招魂社が建立されることに成った。
此の建立場所については木戸孝允と大村益次郎とに意見が対立した。
次に九段坂上三番町通元歩兵屯地跡が社地の候補に挙がりました。明治2年6月12日、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下は軍務官副知事大村益次郎等に九段一帯の検分を命じた。大村等は此の地に招魂社を建てるべきと上奏した。こうして九段に招魂社が建立されることになりました。
明治2年6月19日、招魂社の仮本殿、拝殿が起工。6月23日、軍務官は同月29日から5日間に渡って招魂祭を行うと諸藩に通達。
明治2年6月28日、明治天皇は皇居神祇官代にて祭典を執行。八百万の神々に日本の平和を祈られた。その際に用いられた鏡は招魂社に奉納され、今日も國神社の御霊代として大切に受け継がれている。
明治2年6月29日午後2時、霊招の式が行われた。大村益次郎軍務官副知事が本殿下段に着座。大村は奉幣使から勅幣を受け取り、勅使に捧げた。勅使は勅幣を神前に納め、祭主の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下が拝礼し、祝詞を奏上。政府高官が続き、太政大臣三条実美も祝詞を奏上。祝砲が撃たれて式が終わり、神饌は下げられた。
こうして明治2年6月29日、「東京招魂社」が鎮座した。
招魂祭は7月3日まで続いた。招魂祭最終日は昼夜に渡って花火が打ち上げられ、明け方まで相撲奉納まであり、お祭り騒ぎは続いたと云いわれ、其の後も、例祭祝詞 明治2月9月に至る迄祭事は続いた。
第1回合祀祭では戦没者3588名が合祀された。元治元年の蛤御門の変で討死した会津藩士も合祀されてる。東京招魂社の祭日は1月3日(鳥羽伏見の役)、5月15日(彰義隊潰走)、5月18日(函館陥落)、9月22日(会津藩降伏)と定められた。また、6月29日は御創立記念日祭が行われました。
また、鎮座祭には遠州報国隊、駿州赤心隊が奉仕。このうち62名が招魂社社司と成った。
続く(次談は「(招魂社☛靖國神社②)」である)。
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