2014-05-08 15:51:59 投稿
前回
天上天下唯我独尊 8文字の中に、個人の自由、命の尊厳、
平等の概念、現代の人権思想の原理があります。そのように見
れば19世紀のフランス革命、自由の女神に値する文字の美し
さです。
としました。西欧の人権の原理は自由、平等、友愛です。
ならば 天上天下唯我独尊は
一人称で自由独立、二人称で平等、一人称二人称の合算で共
生愛です。 自由、平等、共生愛
貴方が今いる大宇宙の中の地上がすべて、人は自由で有り、
互いの命の尊厳を認める、共に生きる相手を愛する共生愛。
生きとし生けるもの総ての命は尊い、あなたもわたしも尊い。
天上天下唯我独尊の解釈は最終とします。
天動説があった頃、誰も地動説は信用しません。地動説は天体
観測で得られた結果ですが、星(恒星)の動きと月、金星、火星
等の動きの違いです。金星は最も明るく見える星ですが、明けの
明星、宵の明星でしか見えません。何故?地動説の始まりです。
2014/5今は明けの明星の見えるチャンスです。
ぐんま天文台参照 他に国立天文台
釈迦は自分の悟った縁起を、甚深微妙にして一般の人々の知り難
く悟り難い。此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が
生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。釈迦の論理学です。
何故か?始めに言葉あり、言葉は言葉として確実なものです。
釈迦の時代、人間は輪廻を繰り返し、苦の連続の思想が既にあ
り、現世で善行を積んで来世での生活に期待するか、難行苦行の
修行で仙人となるかの時代でした。釈迦は出家の道を選んでも生
活でき、思想を深めることができました。
釈迦は縁起よって無我、無常の世界観を得て、現世を肯定し、
涅槃寂静の境地に至る悟りの境地、修行を説きました。
釈迦は五蘊(ごうん)色、受、想、行、識で識は行が無ければ、
行は想が、想は受が、受は色が無ければ存在しない。識が認識や
直感、心、霊魂とするならば、色や受想行が無ければ識は有りま
せん。しかし、私は輪廻転生しない。と言っても他の人は、自分
は輪廻転生しない。とは理解しないだろう。を知るリアリストで
した。たしかでない死後、輪廻転生に反するためには、世界を識
る知恵と現世での他者を認める共感の努力が必要です。普通の人
にとっては、考える必要のない言葉で理解する方が簡単です。
空の言葉の概念は釈迦の時代には無かったでしょう。死後、数
百年で確立しました。釈迦の後世の般若心経では、無色無受想行
識、五蘊皆空となっています。釈迦は哲学や修行を語っても信仰
について語っていません。しかし、ブッダの修行教団は経済的に
来世を説き、釈迦を祭り上げ、浄土、極楽を見出すことで仏教は
輪廻を克服し、大衆化しました。それは、歴史的に見ればインド
ではバラモン教が仏教とヒンズー教に分派していることです。そ
してゾロアスター教等多くの宗教を吸収して増殖分裂しました。
チベット仏教ではダライ・ラマは世襲ではなく、生まれ変わりで
継承されています。
死後の問題は現代でも人生の重要な問題です。釈迦の思想は宗
教、信仰として発展伝承されて来ました。歴史や科学知識が発達
した今日でも、様々な宗教が生まれ変わり、前世、霊魂、背後霊、
来世などのあいまいな概念を信仰、宗教の前提として成立してい
ます。しかし、現世を第一義にすることでその正当性をかろうじ
て保っていますが、崇拝者、指導者を絶対化する集団はカルト化
しています。
釈迦が自ら輪廻転生しないと言った真意は世界は無我、無常の
世界であり、はっきりしない前世、来世を案じて苦労するよりも、
現世で涅槃寂静の悟りを得るであった。歴史はそれを証明してい
る。言葉、文字ですら無常であって、釈迦の言葉は後世の人々の
伝承によって伝えられ、元の言葉は数百年後には理解すら困難で
あり、人々の心から離反すれば、そのものが伝承されない事を。
心、魂、心情は共感にって伝わります。多くは物や言葉、音楽、
表情や表現によって成立します。人類共通の感覚、笑顔や怒りの
感覚も有れば、その社会でしか理解できない表現もあります。
人は物に心を込めては芸術品を、音に心を込めて音楽を、言葉
に心を込めて文学を伝承できます。そして、人類は科学によって
宇宙の原理を伝承発展させてきました。
釈迦が無常、無我の境地に至った時、苦しみは楽と一体化しま
す。感じ想う自分が無我ならば、自分を信じる無我は、他人を信
じることができます。自然を愛で、親妻子を愛する心が無常であ
っても、無我の私は愛することができる。この境地に至るならば、
前世来世に思い悩むことは余分で有り、無駄であると。
無我で有るあなたならば無我で有る自分と即効に共感が可能と