12支の兎が6週目をチャレンジする年齢になりました。母を亡くしてまもなく1年を迎えます。逆縁にならないことが最大の親孝行であった天邪鬼です。弱って来た母に僕が先に逝くことは無いよと言った時の嬉しそうな笑顔が目に焼き付いています。弔いの中で忘却の彼方にあった記憶が徐々に蘇りました。想えば息子命の母であったとつくづく感じます。親不幸は多々有りますが、一番は幼稚園の時、運動会で母と遊戯する案内状を隠したことです。仕事で忙しくする母を思っての反抗ですが、孫を持つ年の今では痛恨の痛みです。屈折した子供でした。こって牛、宇宙人です。
言葉にはウソがあります。ウソの上にウソで塗り固め、反論を許さないのが現実の世界、質問を拒絶する大人の事情が幅を利かせます。桃の花が咲かない桃の節句、梅雨の真っ只中の七夕にお願いを。美しき虚構の世界です。虚構で固めた文化を押し付ける学校の先生と親への反抗。言葉の裏にある利害・感情に敏感に反応します。つい最近も元学校の先生だった知人に天邪鬼やなと言われ自覚しました。当たり前の事を言います。水は川上から川下へ流れる自然の摂理があります。反論を許さない自明の論理に執着しました。そして、言葉の持つ意味よりも、その言葉を発する人の人間性(どんな人か)の観察に重きがありました。
思考の固まってしまった人は屁理屈と断じます。私は人が理解できなくても争いません、押し付けもしません。私は自由人です、まだまだ柔軟な思考があります。一般に言葉は大切です。子供の頃から刷り込まれ、固着した考えは変えることは困難です。しかし、未来の子供達には自明のコトを解りやすく伝えることが使命であると自覚するに至りました。理解され無くても自明の論理を創る臆病さと忍耐力が私を大きく育てました。天邪鬼たる由縁ですが、自己主張をするよりも、可能な限り争わず生活を送る生活の知恵でした。母への弔いは、母が苦労した時代をより良くすることです。
人が死ねばどうなる?生命活動の終り、活動と思考の終了です。花が枯れ鳥が死ぬ。子供でも理解できます。生命は?次世代を残すことで存続します。鮭が生まれた川に戻り次世代を残し命が絶える。命の再生、生命の伝承です。死の恐怖からあの世を作り、集団の維持のために利用してきた人間の虚構があります。生命の誕生から現在の歴史・科学の発展がハッキリさせています。何度でも言いますが、釈迦が争はなかったように来世を信じている人、魂の不滅を信じる人とは争いません。よって悪言で十分です。
人の死は厳粛な生の終焉です。愛する人との離別は悲しいものです。他人が立ち入り難いプライベートな問題です。しかし、知性を育み、文化を作り上げてきた人類にとっては特別な意味合いがあります。人の死は生への賛歌であるべきです。人は過酷な生存の生活実体の中で命を繋ぎ育んでいます。それは命の性(サガ)、生物の必然の実相です。残酷さを美しき虚構がカモフラージュしています。無償の愛と言う人もいれば、親に孝行、親が好き勝手に産んだと言う人もいます。それも文化の継承の中で引き継いで来たコトです。失敗の親ガチャ子ガチャと言う方がムチャです。千年先の夢を語ることと同じです。
弔いはどうあるべきか?親子にとっては遺伝子ゲノムを受け継ぐだけで無く、母の心や想いは私の人格の一部として生き続けていると自信があります。それは母を育てた祖父母や父の人格の一部でもあります。生命の誕生から太古より続いてきた生命の営み、文化の継承と刷新です。一人の生命の死は厳粛な大事件エポックです。愛する人との別離と悲しみ。弔いは共に生きた過去に思いを馳せ、未来に向かってより良く生きる力、知恵を得る作業が努めです。命の再生、それは愛する人の生き様を受け止め、自身との一体化の作業です。それは人を強くし、優しさを生みだす源泉です。
愛する人との別離・人の死は日々の生活で生じる自己中心、利己心から普遍的な愛にめざめ変換させるチャンスです。賢者は仏心、神の心を育むのが宗教の使命と言いました。難行苦行ではありません、一人の生命の死は今を、未来を創るという生きる者の務めであり、それが弔いであるべきです。
しかし、仏教が死という生命の一大事で人が涵養すべき「愛と公平」感を”供養・感謝”の言葉に矮小化し、前世代が伝承してきた差別意識の継承に迎合してきたのも事実です。人を許すことができ無いのは心貧しき弱者であると言います。宗教心が命に対する畏怖・敬意では無く、人の弱さを覆い隠す優越感の温存に”供養・感謝”という言葉で置き換えています。優越感と差別意識は表裏一体・同じことです。現代社会では差別意識を持つ人の「自由」が「愛と公平」を蹂躙しています。それは釈迦の本意ではありません。
いわんや供養という言葉で親や先祖があの世で迷っているという祟り(タタリ)、招福という弱者につけ込むのは歴史的な悪徳の業です。断言します。子を想い育んできた親や先祖が死後に子孫や世の人々を祟ることは断じてありません。
「念ずれば花ひらく」で有名な仏教詩人の坂村真民は
「わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる・・・」
「花は散ったあとの悲しみはない ただ一途に咲いた喜びだけが残るのだ」
と残しました。死に逝く者は死を覚悟するだけです。弔うとは亡くなった人では無く「後生の一大事」として、後を生きる者が死者の生き様をどう受け止めて未来に生かすかにかかっています。
日本の大衆仏教を育てた延暦寺の中心経典の一つ、法華経(釈迦の死後およそ五百年後あたりに成立?)の方便品(日蓮は寿量品との2つで十分としました)ではウソも方便として釈迦が死後は無記とした教え、の改変を正当化しました。それは自灯明・法灯明を説いた釈迦の教えにも起因しますが、現代の進んだ知見からは乖離しています。
私は未来の子供達に伝えると発憤しました。次世代に残すべき遺産は金銭や栄誉ではありません、豊かな文化遺産・人間が動物から人間に進化する間に育て育んだ心です。「自由・愛・公平」(釈迦の考え現代訳)です。今、貧富の格差が増大しています。戦後の昭和人間にとって、それは差別意識が拡大した結果です。儲ける才が有るか無いか?個人の責任とする利己的な”自由”が大阪や日本を席巻しています。「差別は過去にも有ったし、これからも無くなることは無い」と格差拡大を是とし、競争に勝ち抜くか敗れるかは個人の問題としています。今や株価高騰を謳歌する一方で食費の高騰、質の低下に苦しむ庶民がいます。個人や社会の自由・自由主義の下に「愛・公平」を置ています。
宗教者の総意は公平を基に自由と愛を両立させていく。と考えますが、葬式仏教に甘んじますか?祈り・祈祷に現実を超越する力が有るならば戦争で亡くなる人はいません。動かせるは人の心・感情だけです。
愛する子供を亡くした多くの親が、その原因の改善のため必死に活動します。それが悲劇の世界から、より良い世界に変える大きな力になります。弔いとはそうであるべきです。弔い合戦は戦いの再生産です。死者も死者を愛する人の中で、生きる人間としてこの世に存在し続けます。自由・愛・公平を旨として将来を創る必要があります。
宗教が宗教であるゆえんは来世や輪廻、天国を信じることではありません。仏陀は仏様に祭り上げられていますが、死後の世界を無記とした釈迦は一人の人間です。過去から現在まで現実を生きてきた賢者が人の迷い・苦しみから逃れ、自由と愛に生きる、そのためには公平が大切である教えです。
拡大を図るエセ宗教は信者を支配し、心の隷属による自己肯定感・幸福感を与える一方で、他者に対する優越感と差別意識によって人間関係を破壊します。先祖供養は世迷い事、生きている人間が第一です。多額の金銭を要求する宗教行為はサギ行為です。 #世界平和統一家庭連合 #エホバの証人
この世をよくしましょう。幸せが人間関係にあるなら、あの世を大切にし、先祖供養することは過去の古い体制を維持する保守、差別・支配の過去を補完する行為です。生きている間に苦しんだ先祖の弔いは現世をよくすることです。
人は感情で生きています。感情を表現し、どうするべきかも言葉によって思考判断されます。言葉~文明文化の所産です。こころの時代~宗教・人生がNHKで放送されていますが、現代では心の拠り所は多様化し複雑になっていますが、言葉はある意味で他人からの借り物です。人は借り物を使って思考し自分の考えとしています。或いは多くの人は考えもしないで人の言葉を自分の考えとします、考える苦労が必要ないからです。手っ取り早く自分の感情に適う言葉を取り込みます。
中村元はブッダのことばとして「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」としました。あなたの心のより所は誰ですか?ナニですか?
追記:
実家を処分するために仏壇を移動するとき、長年お世話になっていた坊さんとお性根抜きで揉めました。曰く、教義では位牌には魂が宿っているため?移動させるとお盆に帰ってくる先に迷ってしまう、魂を一旦抜き、移動先でお性根入れする必要があります。と
母は自分の中に在ると確信している私にとってはサギ商法そのものです。お経でモノに魂が宿るならば移動でも位牌に魂が宿るお経を唱えるべきです。身に付けるお守りは?尊敬に値しない人に母の死をいたぶって欲しくないのがケチの本心です。
言葉にはウソがあります。ウソの上にウソで塗り固め、反論を許さないのが現実の世界、質問を拒絶する大人の事情が幅を利かせます。桃の花が咲かない桃の節句、梅雨の真っ只中の七夕にお願いを。美しき虚構の世界です。虚構で固めた文化を押し付ける学校の先生と親への反抗。言葉の裏にある利害・感情に敏感に反応します。つい最近も元学校の先生だった知人に天邪鬼やなと言われ自覚しました。当たり前の事を言います。水は川上から川下へ流れる自然の摂理があります。反論を許さない自明の論理に執着しました。そして、言葉の持つ意味よりも、その言葉を発する人の人間性(どんな人か)の観察に重きがありました。
思考の固まってしまった人は屁理屈と断じます。私は人が理解できなくても争いません、押し付けもしません。私は自由人です、まだまだ柔軟な思考があります。一般に言葉は大切です。子供の頃から刷り込まれ、固着した考えは変えることは困難です。しかし、未来の子供達には自明のコトを解りやすく伝えることが使命であると自覚するに至りました。理解され無くても自明の論理を創る臆病さと忍耐力が私を大きく育てました。天邪鬼たる由縁ですが、自己主張をするよりも、可能な限り争わず生活を送る生活の知恵でした。母への弔いは、母が苦労した時代をより良くすることです。
人が死ねばどうなる?生命活動の終り、活動と思考の終了です。花が枯れ鳥が死ぬ。子供でも理解できます。生命は?次世代を残すことで存続します。鮭が生まれた川に戻り次世代を残し命が絶える。命の再生、生命の伝承です。死の恐怖からあの世を作り、集団の維持のために利用してきた人間の虚構があります。生命の誕生から現在の歴史・科学の発展がハッキリさせています。何度でも言いますが、釈迦が争はなかったように来世を信じている人、魂の不滅を信じる人とは争いません。よって悪言で十分です。
人の死は厳粛な生の終焉です。愛する人との離別は悲しいものです。他人が立ち入り難いプライベートな問題です。しかし、知性を育み、文化を作り上げてきた人類にとっては特別な意味合いがあります。人の死は生への賛歌であるべきです。人は過酷な生存の生活実体の中で命を繋ぎ育んでいます。それは命の性(サガ)、生物の必然の実相です。残酷さを美しき虚構がカモフラージュしています。無償の愛と言う人もいれば、親に孝行、親が好き勝手に産んだと言う人もいます。それも文化の継承の中で引き継いで来たコトです。失敗の親ガチャ子ガチャと言う方がムチャです。千年先の夢を語ることと同じです。
弔いはどうあるべきか?親子にとっては遺伝子ゲノムを受け継ぐだけで無く、母の心や想いは私の人格の一部として生き続けていると自信があります。それは母を育てた祖父母や父の人格の一部でもあります。生命の誕生から太古より続いてきた生命の営み、文化の継承と刷新です。一人の生命の死は厳粛な大事件エポックです。愛する人との別離と悲しみ。弔いは共に生きた過去に思いを馳せ、未来に向かってより良く生きる力、知恵を得る作業が努めです。命の再生、それは愛する人の生き様を受け止め、自身との一体化の作業です。それは人を強くし、優しさを生みだす源泉です。
愛する人との別離・人の死は日々の生活で生じる自己中心、利己心から普遍的な愛にめざめ変換させるチャンスです。賢者は仏心、神の心を育むのが宗教の使命と言いました。難行苦行ではありません、一人の生命の死は今を、未来を創るという生きる者の務めであり、それが弔いであるべきです。
しかし、仏教が死という生命の一大事で人が涵養すべき「愛と公平」感を”供養・感謝”の言葉に矮小化し、前世代が伝承してきた差別意識の継承に迎合してきたのも事実です。人を許すことができ無いのは心貧しき弱者であると言います。宗教心が命に対する畏怖・敬意では無く、人の弱さを覆い隠す優越感の温存に”供養・感謝”という言葉で置き換えています。優越感と差別意識は表裏一体・同じことです。現代社会では差別意識を持つ人の「自由」が「愛と公平」を蹂躙しています。それは釈迦の本意ではありません。
いわんや供養という言葉で親や先祖があの世で迷っているという祟り(タタリ)、招福という弱者につけ込むのは歴史的な悪徳の業です。断言します。子を想い育んできた親や先祖が死後に子孫や世の人々を祟ることは断じてありません。
「念ずれば花ひらく」で有名な仏教詩人の坂村真民は
「わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる・・・」
「花は散ったあとの悲しみはない ただ一途に咲いた喜びだけが残るのだ」
と残しました。死に逝く者は死を覚悟するだけです。弔うとは亡くなった人では無く「後生の一大事」として、後を生きる者が死者の生き様をどう受け止めて未来に生かすかにかかっています。
日本の大衆仏教を育てた延暦寺の中心経典の一つ、法華経(釈迦の死後およそ五百年後あたりに成立?)の方便品(日蓮は寿量品との2つで十分としました)ではウソも方便として釈迦が死後は無記とした教え、の改変を正当化しました。それは自灯明・法灯明を説いた釈迦の教えにも起因しますが、現代の進んだ知見からは乖離しています。
私は未来の子供達に伝えると発憤しました。次世代に残すべき遺産は金銭や栄誉ではありません、豊かな文化遺産・人間が動物から人間に進化する間に育て育んだ心です。「自由・愛・公平」(釈迦の考え現代訳)です。今、貧富の格差が増大しています。戦後の昭和人間にとって、それは差別意識が拡大した結果です。儲ける才が有るか無いか?個人の責任とする利己的な”自由”が大阪や日本を席巻しています。「差別は過去にも有ったし、これからも無くなることは無い」と格差拡大を是とし、競争に勝ち抜くか敗れるかは個人の問題としています。今や株価高騰を謳歌する一方で食費の高騰、質の低下に苦しむ庶民がいます。個人や社会の自由・自由主義の下に「愛・公平」を置ています。
宗教者の総意は公平を基に自由と愛を両立させていく。と考えますが、葬式仏教に甘んじますか?祈り・祈祷に現実を超越する力が有るならば戦争で亡くなる人はいません。動かせるは人の心・感情だけです。
愛する子供を亡くした多くの親が、その原因の改善のため必死に活動します。それが悲劇の世界から、より良い世界に変える大きな力になります。弔いとはそうであるべきです。弔い合戦は戦いの再生産です。死者も死者を愛する人の中で、生きる人間としてこの世に存在し続けます。自由・愛・公平を旨として将来を創る必要があります。
宗教が宗教であるゆえんは来世や輪廻、天国を信じることではありません。仏陀は仏様に祭り上げられていますが、死後の世界を無記とした釈迦は一人の人間です。過去から現在まで現実を生きてきた賢者が人の迷い・苦しみから逃れ、自由と愛に生きる、そのためには公平が大切である教えです。
拡大を図るエセ宗教は信者を支配し、心の隷属による自己肯定感・幸福感を与える一方で、他者に対する優越感と差別意識によって人間関係を破壊します。先祖供養は世迷い事、生きている人間が第一です。多額の金銭を要求する宗教行為はサギ行為です。 #世界平和統一家庭連合 #エホバの証人
この世をよくしましょう。幸せが人間関係にあるなら、あの世を大切にし、先祖供養することは過去の古い体制を維持する保守、差別・支配の過去を補完する行為です。生きている間に苦しんだ先祖の弔いは現世をよくすることです。
人は感情で生きています。感情を表現し、どうするべきかも言葉によって思考判断されます。言葉~文明文化の所産です。こころの時代~宗教・人生がNHKで放送されていますが、現代では心の拠り所は多様化し複雑になっていますが、言葉はある意味で他人からの借り物です。人は借り物を使って思考し自分の考えとしています。或いは多くの人は考えもしないで人の言葉を自分の考えとします、考える苦労が必要ないからです。手っ取り早く自分の感情に適う言葉を取り込みます。
中村元はブッダのことばとして「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」としました。あなたの心のより所は誰ですか?ナニですか?
追記:
実家を処分するために仏壇を移動するとき、長年お世話になっていた坊さんとお性根抜きで揉めました。曰く、教義では位牌には魂が宿っているため?移動させるとお盆に帰ってくる先に迷ってしまう、魂を一旦抜き、移動先でお性根入れする必要があります。と
母は自分の中に在ると確信している私にとってはサギ商法そのものです。お経でモノに魂が宿るならば移動でも位牌に魂が宿るお経を唱えるべきです。身に付けるお守りは?尊敬に値しない人に母の死をいたぶって欲しくないのがケチの本心です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます