よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

14:第3章 なぜ完全雇用は達成できないのか?あるいは、なぜ貯蓄は社会を貧しくするのか?

2021年07月07日 | 一般理論を読む
第3章 有効需要の原理
経済学には様々な目的があり、その目的によって立場があるが・・・ 

 一般理論を読み進めているうちに分かってくるのは、「貯蓄が失業を作り出だす」ということである。

  第2編で展開されるが、第1編でもケインズはそのことを主張しているのだ。
 借金の返済も貯蓄の一種である。投資や消費に回ることのない貯蓄は資金の余剰であって、その分だけ現在での雇用を減らし将来の所得を減らす。貯蓄という行為が逆説的に社会を貧しくすることがありうる。価格変動で需給が均衡すると主張する古典派、現代正統派には、どうしてもこの点が理解できない。理論上認めるわけにはいかないのである。

 財政危機論者が必ず構造改革論者であって非自発的失業の存在を認めないのは、それなりに首尾一貫しているのだ。

非自発的失業とは

 有効需要不足という単語が一般理論にも登場し、世間でも言われるが、「完全雇用水準に対して有効需要が不足している」と言うべきであった。つまり、総需要関数と総供給関数の交点、需給の均衡点のときに完全雇用水準に達していないことがある(というより原理的には達しない。)という事実は、非自発的失業者の存在を導き出し、古典派経済学を根底から覆すことになる。そもそも非自発的失業の存在を認めない古典派ならびに現代正統派には、この有効需要≠完全雇用という問題自体が発生しないのだから。

なぜ、有効需要が完全雇用水準に対して不足するという事態が発生するのか?

  それは有効需要が消費と投資に依存しており、限界消費性向が低下した分だけ投資が増えるという保証が経済体系には組み込まれていないからである。

 この点は第1公準には含まれない。この章ではケインズは次のように説明している。

「雇用量がいかなる水準にあっても、その雇用量が正当化されるためには、総産出量のうちその雇用用水準において社会が消費しようとする量を上回る部分を吸収してやるだけの投資が当に存在しなくてはならないことになる。というのは、これだけの量の投資が存在しないと、企業者の収入は、その雇用量を提供しようという誘因を彼らに与える額を下回ってしまうからである。それゆえ、われわれの言う社会の消費性向が与えられると、均衡雇用水準、すなわち雇用者が全体としてもはや雇用を拡大したり縮小したりする誘因をもたないような水準は、当期の投資量に依存することになろう。当期の投資量はというと、われわれのいう投資誘因に依存し、さらに投資誘因は資本の限界効率表とさまざまな満期と危険をもつ貸付の利子率複合体との関係に依存することがわかるであろう。」

「社会が潜在能力の面で富裕であっても投資誘因が弱ければ、有効需要の原理がはたらいて現実の産出量を減少させずにはおかず、最後には、その潜在的な富にもかかわらず、消費を上回る余剰が、弱い投資誘因に見合う水準に減少するまで、貧しくなってしまうだろう。

 この引用が、前章最後の問題

「売れない製品を作っている企業は淘汰され、結局は“需要は自らの供給を生み出す”ことになる。しかし、そのように企業が淘汰されていく先に何が待っているのか。」

 に対するケインズの答えである。

 ケインズは一般理論結語の部分でこう述べている。

「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不公平なことである。」

 経済学は立場である。私は、完全雇用は達成されるべきであり、富と所得の分配は公平であるべきだ、との立場にたっている。

 皆さんはどうだろうか?

 繰り返すが
 
 有効需要が消費と投資に依存しており、限界消費性向が低下した分だけ投資が増えるという保証が経済体系には組み込まれていないのである。

 

最新の画像もっと見る