貯蓄は、それが投資に回るから社会を豊かにする。
ところが社会が豊かになるほど投資の機会は減っていく。
先回りして言うと、非営利事業にしか解決策はないのだ。
非営利事業とはNPOのことではなく、雇用でみると最も大きな産業になりつつある医療・福祉分野なのである。
社会保障はムダと思っている限り停滞・衰退は進んでいく。
ケインズの悪魔の恒等式 人は「貯蓄の分だけ」貧しくなる
いよいよ核心的命題である。「第6章 所得、貯蓄および投資の定義」で議論されたことが、使用費用の議論を経て再び検討される。使用費用論と貯蓄-投資論が入れ子になっていてわかりづらいとか、ケインズは十分に整理せずに書いたのではないか、と言う人もいる。そんなことはない。行きつ戻りつしないと議論が進められないだけである。
使用費用について以下の記述があり
「使用費用をどれくらいにするかは、装備をどのように用いれば耐用期間全体にわたる収穫を最大化することができるかについての企業者の見解によって決まる」
とある。
使用費用概念の理解が間違ってなかったことがわかる。
貯蓄=投資という本題に戻ると
当期発生原則で貨幣の流れを整理すると以下のようになるのは前に見た通り。
経済全体で見て当期に実現された売り上げは総所得となるが、それは消費財と資本財の売上合計である。所得―消費は貯蓄だから貯蓄=投資となる。当期売り上げた消費財と資本財の合計が当期の総所得となるのは上の図からも明白だが、総所得は貯蓄と投資はいつもイコールなのか?
ケインズはロバートソン氏の論述から当期から来期へという「期間分析」を導入する。
期間分析の導入:貯蓄と投資の差分は所得によって調整される
今日の所得=昨日の投資+昨日の消費 なら
先ほどの式は:今日の貯蓄=今日の所得―今日の消費
=(昨日の投資+昨日の消費)―今日の消費
ケインズ:昨日の投資+昨日の消費=昨日の所得)だから
=昨日の所得―今日の消費
=昨日の所得―(今日の所得―今日の投資)
=昨日の所得―今日の所得+今日の投資
今日の貯蓄―今日の投資=昨日の所得―今日の所得
昨日と今日の所得の差だけ貯蓄は投資を上回る。貯蓄が投資を上回った分だけ所得が減るということなのだ。 逆にいえば投資が貯蓄を上回った分、所得が増える。
つまり(上から下へ)前期所得から当期の消費と投資が行われる、と考える。
または(上から下へ)
ここで、「金融資産へ」「金融資産から」とあるのは「返済」と「借入」と同義である。貯金したり取り崩したりするのと、返済したり借り入れしたりするのは同じである。
ケインズは、
「こうして、ロバートソン氏が貯蓄の投資に対する超過が存在すると言うとき、彼は私が所得が低下していると言うのと文字通り同じ意味のことを言っており、彼の意味での貯蓄の〔投資に対する〕超過は私の意味での所得の低下と全く同等になる。今日の期待はいついかなる場合にも昨日実現された結果によって決まるというのが本当なら、今日の有効需要は昨日の所得に等しくなるであろう。有効需要と所得の違いは因果分析にとってはきわめて重要であり、そのために私は両者の違いを際立たせたのであるが、ロバートソン氏の手法は、要するに、私がなそうとした区別と同様の区別を行おうとする試み、私のやり方に代替されるいま一つの(たぶんそれに対する一次近似の)試みと見なしうるのである。」
いよいよ「貯蓄は人を貧しくする」という核心的命題に近づいてきた。
27:第7章 ケインズの 悪魔の恒等式 人は「貯蓄の分だけ」貧しくなる
前項を簡略に表現すると
貯蓄、投資、所得の関係は
式A:所得=生産物価値=消費+投資
式B:貯蓄=所得―消費
式Bの所得項に式Aを代入すると
消費が消えて
貯蓄=投資
式Aで投資が増えれば消費が減り、式Bから消費が減れば貯蓄が増えることになる。
この章では、当期の所得・貯蓄・投資を分析して貯蓄=投資となるとしている。ケインズは期をまたいだ分析はしていないので、結論はここまでだが、先取りをすると、
貯蓄>投資 なら所得減少
貯蓄=<投資 なら所得増大
*貨幣数量説の信者は貨幣数量説であるから利子率・貨幣量内生説となるので貯蓄を上回る投資はできないと考える。ここはリフレ派、MMTはできると考える。
この 貯蓄=投資 の恒等式は「悪魔の恒等式」である。貯蓄・投資バランスは所得の増減によって保たれていく。貯蓄をするほど貧しくなることがあるのだ。
ここまで、ケインズによる古典派経済学理論の定式化、有効需要の原理、貯蓄=投資バランス、使用費用について筆者なりの新しい光を当ててきたわけであるが、ここまでの章は「一般理論」の全面展開のための助走、諸概念の再定義であった。
いよいよ次章から一般理論が全面展開される。それは正統に対する“異端”の名にふさわしい、常識を覆す恐るべき理論である。