何気ないが重要な編
第3編 消費性向 は以下の章からなっている。
第8章 消費性向(1)―客観的要因
第9章 消費性向(2)―主観的要因
第10章 限界消費性向と乗数
最初に種明かしをしてしまうと、消費性向は変化しにくい、ということを言っている。
「 16:第1編の終了にあたっての概括 経済学は科学なのか?」で以下のように書いた。
一般理論を根底から覆すためには限界消費性向低下の法則を否定すればよく
- 「人は豊かになればなるほど消費性向が上昇する」という事実を示すだけでよい。
- あるいは「低下した消費性向の分だけ必ず投資が増える」という事実を示すだけでよいのである。
この1.を否定している。否定どころか逆であると主張している。 人は豊かになるほど消費性向は低下する、と主張しているのだ。
さらにこの編で最も重要なのは「乗数理論」である。今使われている乗数理論とは全く異なる概念だ。
「乗数理論は今や通用せず、政府の財政支出は意味がない」などという言説に出くわしたらその本はそれ以上読む必要はないし、発言であれば以降相手にすることはない。時間の無駄である。
その点、本ブログは最短の時間で経済学の神髄に到達できることを保証できる。(と思う)
「エコノミスト」や金融財政当局はその責務を果たしているのだろうか?
経済学者は無能である。金融財政当局者も無能である。このような言い回しはこれから何回も出てくると思うが、それは多分に筆者の品性の欠如のためかもしれない。年寄の世迷言なのかもしれない。
しかし、最後まで読んでいただいた読者は同意してくださることと思う。ケインズですら、書き方がひどい。罵詈雑言を並べている。悪口の程度が半端ない。とか言われているのだから。
しかし、経済学者も金融財政当局者も、金融資産をただ持っているだけの人々を守るのが責務であるなら、デフレによってその責務を立派に果たしている。分かってやっているなら「風向きが変われば」変わるはずだが、野党もナショナルセンターも「無駄遣いを止めろ!」「財政再建!」では風向きが変わるはずもない。誤った信仰のようなものである。棄教させるのは容易ではない。
しかもそういう人々が言う無駄遣いとは今後巨大な成長が見込まれる医療・福祉分野なのである。
脱線が長くなった。
古典派も現代正統派も暗黙裡に「セイの法則」を前提にしている。である以上、有効需要という概念が入り込む余地はなく、消費と投資の要因を探求する必要もない。
一般理論は雇用を決定する要因に関する理論である
これまでのところでは、
- 雇用量は有効需要によって決定される。
- 有効需要は消費+投資である。
ということであった。
そこで消費と投資を決定する要因を探ろう、ということである。第8章から第18章まで続く。
この辺りから原文の引用が増えてくる。特に断りを入れない限り、最初に紹介した岩波文庫版であり、斜体を採用している。
人々の消費の意志はどうやって決まっているのだろう?
所得のうちいくらを消費に回すのか、人々がそれぞれの自由意思で決めていることに「客観的要因」があるのだろうか?
はたまた、「主観的要因」を分析して何になるのだろうか?
有効需要が雇用量を決め、有効需要は消費と投資から成っているから、雇用量の決定要因を考察するには消費と投資がどのように決まっているか⇒消費関数と投資関数を考察することが必要である。
だから以下の論述は書かれている。
「これまでに、雇用量は総供給関数が総需要関数と交わるところで決まるという結論を暫定的に打ち立てておいた。」
有効需要を決定する交点である。
総供給関数は、これまでの考察で言うべきことは尽きている。総需要関数は
「総需要関数は任意に与えられた雇用水準をその雇用水準が実現すると期待される「売上収入」と関係づけたものである。「売上収入」は二つの量すなわち雇用が所定水準にあるときの消費支出額と投資に振り向けられる額との合計額である。これら二つの量を決める要因は多くの場合、別物(*)である。本篇では前者、すなわち雇用が所定水準にあるときの消費支出額を決定する要因を考察することとし、投資に振り向けられる額を決定する要因については第四篇に入ってから考察を行うことにする。」
*売上収入は消費と投資の和である。消費と投資はそれぞれ別の要因で決まる。消費と投資にはそれぞれ客観的要因と主観的要因があるだろう。それぞれのそれぞれを別に考察しようというわけだ。
ここからの章は、経済学者かどうかより、「コモンセンス」を持っているかどうかで理解の差が出てくるであろう。
すなわち、ほとんどの「経済学者」には期待が持てない、ということである。