利子をいくら下げても、それだけでは、需要は生まれない マイナス金利の陥穽
利子率と利潤率の関係とは?
ここからケインズは古典派の利子率理論批判に移るが、リカードの利子率理論のところだけで十分であろう。ただし難解。難解である理由は「常識が邪魔をするから」。
リカードの利子率理論とは
貨幣に対する利子を規制するのは5パーセント、3パーセント、2パーセントといったイングランド銀行(the Bank)の貸出利率ではなく、利潤率である。利潤率は資本の雇用によって決まり、貨幣量あるいは貨幣価値とはなんの関係ももたない。銀行が100万貸そうが、1000万あるいは一億貸そうが、そのことによって市場利子率が永続的な変化を被るわけではない。変わるのは発行される貨幣の価値だけである。同じ事業を続けていくのに、ある場合には他の場合の10倍、20倍の貨幣が必要になることもあろう。その場合、イングランド銀行に資金借入れの申し込みを行うかどうかは、その資金を用いることで得られる利潤率と銀行が貸し出そうとする率との比較考量によって決まる。貸出利率が市場利子率よりも低ければ、銀行はいくらでも貸し出すことができる。反対に貸出利率のほうが高ければ、浪費家や放蕩者でもなければ誰も資金を借り入れようとは思わないだろう。
リカード『政治経済学原理』より引用
ここでリカードが提示しているのは先にケインズが棄却した「資金の需給は利子率という資金の価格で調整される」という命題である。
イングランド銀行に資金借入れの申し込みを行うかどうかは、その資金を用いることで得られる利潤率と銀行が貸し出そうとする率との比較考量によって決まる。
このマーシャルの主張は当然のように見える。
「経済学ってそんなことなの??? 当たり前ではないか。簡単なことを難しく言ってるだけじゃないのか?」
だから何回も言ってきた。古典派=常識だ、と。常識を打ち壊すのが科学なんです。地球が太陽の周りを回ってるって!!!
しかも「常識」と「主流派」「正統派」がイコールだから始末に悪い。
一般理論ではどう考えるのか?
では一般理論ではどう考えるのか?
- 総供給曲線と総需要曲線の交点が有効需要である。
- 労働供給曲線や資本の限界効率が不変なら、この有効需要に対する雇用量はただ一つに決まる
- 一方、利子率と貨幣量は流動性選好表によって決まり、その利子率は資本の限界効率の下限を決める(に過ぎない)。
- 別の要因で決まったその時の利子率によって、資金の需給は調整される。無論そのとき資金の需給が均衡する保証はない。
ケインズの立場は、財やサービスの生産によって利子率が決まるのではない、ということだ。投資資金の需給バランスで決まる価格ではないからだ。では通貨当局が貨幣量を増減させることについては、どう考えているのだろうか。
利子率は投資資金に対する需要と現在の消費をさし控えようとする節欲とを均衡化させる「価格」ではない。それは富を現金という形でもとうとする欲求と現金の有り高とを均衡化させる「価格」である。だから、利子率が下がる、つまり現金を手放すことに対する報酬が減少すると、そのときには、大衆がもちたいと思う現金の総量は現金の残高を凌駕する(exceed the available supply)だろうし、利子率が上昇すれば、誰ももとうとは思わない現金の余剰が発生するであろう。
(利子率とは)富を現金という形でもとうとする欲求と現金の有り高とを均衡化させる「価格」である。
このケインズの指摘は天と地をひっくり返したような、まさに経済学におけるコペルニクス的転回である。
ケインズは利子率によって貨幣量を調整できることもあると考えている。しかし、それは流動性選好表の中身にかかっているのだ。
貨幣量って何?
ここで言っている貨幣量とはそもそもなんだろうか。ケインズは次章「流動性への心理的誘因と営業誘因」で検討している。
ここではその導入部として完全キャッシュレス経済で閉鎖経済である、すなわち海外との財・サービス、資金の移動は考えない、という経済を考えてみる。
完全キャッシュレスだから、財やサービスの売買は口座間の資金移動のみで瞬時に行われる。
その時の銀行の総預金残高が貨幣量となる。この先を考えるといろいろ興味深いのだが、この項ではここまでにしておく。貨幣量があまり問題ではないことが感覚的に理解できればいい。
次の章でケインズが言っている「伸縮的賃金政策」のことも分かってくる。