実は一般理論の「価値論」となる
ケインズは第2編冒頭に次のように記している。
「私が本書を執筆するさい、議論の進捗を図るうえで最も障害になり、そのためなんらかの解決を見るまでは自分の考えを適切に表現することができないと思われた難題として、次の三つのものがある。すなわち、
第一に、経済体系全体に関する問題にふさわしい単位の選定。
第二に、経済分析において果たす期待の役割。そして
第三に、所得の定義。」
この三つの問題を解決しておこう、というのが第2編の目的である。そのなかでもこの第4章は「経済体系全体に関する問題にふさわしい単位の選定」に充てられている。
GDPはまやかしか?
ケインズは、マーシャル・ピグーの「国民分配分」を以下のように紹介する。
- マーシャルとピグー教授の定義にかかる国民分配分は当期生産物の数量あるいは実質所得を表すものであって、産出量価値あるいは貨幣所得を表するのではない。
- しかもそれは、ある意味で、純産出量に依拠している。すなわち国民分配分が依拠しているのは、当期の経済活動と支払われた犠牲によって生み出され、生産開始時点で存在している実物資本ストックの損耗を控除した後に得られる、消費用あるいは資本ストックの留保のための社会の諸資源への純付加分である。
これは、現在の実質GDPという概念とほぼ同じである。
しかし、とケインズは指摘する。
「さまざまな財・サーヴィスから成る社会の生産物は計量不可能な――厳密に言うと、ある特殊な場合、たとえば、ある生産物のすべての構成項目が別の生産物にもそっくり同じ比率で含まれているような場合を除けば計量不可能な――非同質的複合体である。この事実は、上の定義によって数量科学を打ち立てようとすることへの重大な異議申立となる。 」
おっしゃるとおりである。実質GDPを計測するには物価水準という概念が必要となってくるが、構成品目は日々変化するだろうし、産出量を構成する財・サービスの構成比も変化する。さらにケインズの言う通り「非同質的複合体」である。
GDP神話などと言われる根拠でもある。ケインズも「種々雑多な物から構成された二つの通約不能の集合体はそのままでは量的分析の素材とはなりえないという事実」を指摘している。
実質GDPは数量化できない。では名目GDPは何を反映するのだろうか。
では経済全体を計測する試みはそもそも不可能なのだろうか?
ケインズの提案は以下のとおりである。
「それゆえ雇用理論を論じるさいには、たった二つの基本的な数量単位、すなわち貨幣価値量と雇用量だけを利用するよう、提案したい。このうち第一のもの(貨幣価値量)は厳密に同質的であるが、第二のもの(雇用量)もそうすることが可能である。
たとえば、労働や給与払い事務職の等級や種類が異なっていても、相対報酬がある程度固定されているなら、通常労働の一時間の雇用をわれわれの単位とし、特殊労働の雇用についてはその報酬に比例して重みをつける、すなわち特殊労働一時間の報酬率が通常労働の二倍なら、その一時間を二単位と勘定することによって雇用量を定義してやれば、われわれの目的には十分かなうのである。雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶことにしよう。こうして、Eを賃金(および給与)総額、 Wを賃金単位、 Nを雇用量とすれば、E=N×Wとなる。」
「雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶ」
裏には労働力が同質的複合体である、という認識がある。
労働力が同質的であるというのには多くの反論があるだろう。最も素朴な反論は、人間には個性がある、というものだが、ここではそんな話をしているわけではない。
第一に、労働力の質の多様性にともなって職の多様性があるわけではない。その逆である。
第二に、労働力は上へも下へも、右にも左にも移動できる。
自分の労働力の質が高いから、「いい仕事」に就けているんだ、とお考えの方も多かろう。個人にとってはそれでいいかもしれない。経済全体を考えるときには、「いい仕事」があるからその職に就けるのだ、と考えた方がいい。
あなたの「能力」がどれほど高くても、仕事がなければ、職には就けないのだ。
次節で、総産出量(≒GDP)は雇用量(≒賃金総額)の関数であるとして展開される。ここが価値論なのである。
ここをしっかり学べば「成長神話」「脱成長」などというゴタクは並べないでも済む。