「一般理論」は、失業の原因をめぐって何と闘ったのか
それはリカードからマーシャルにいたる古典派・新古典派の「常識」である。その「常識」とは 〈貯蓄=投資である。なぜなら供給=需要だからである〉 という同義反復である。
「個人の所得は全額サーヴィスや商品の購入に支出される。たしかに、個人は所得の一部は支出し、他の一部は貯蓄にまわす、とはよく聞く言である。だが、人が所得のうちの貯蓄部分で労働や商品を購入するのは彼のいわゆる支出部分でそうするのとなんら選ぶところがないというのは、経済学のお馴染みの公理である。」
マーシャル「国内価値の純粋理論」
一般理論の引用からの孫引きである。ケインズの師匠マーシャルが「貯蓄はいずれ消費に回る」と素朴に信じていたことがよく分かる。もちろんそんなことはない、というのがケインズの立場。
ハイエク、ロビンスらの反論
(09:第3章の前に 凝り固まった信念は恐ろしい:一般理論へのハイエクらの”今も昔も変わらない”反論 今も昔も変わらない 参照)
- 貨幣退蔵は問題である ← ハイエクの議論:一致
- 問題は消費か、投資か? ← ハイエクの議論:投資である 一致
- 民間投資か、政府も投資すべきか ← ハイエクの議論:民間投資を助ける規制緩和である 不一致
ハイエク「現在時点での世界の困難の多くは、公的組織による無分別な借り入れと支出によるものである。我々はそういった行動が繰り返される事を望まない。それらは将来世代の財政を抵当にいれているのであり、利子率を上昇させる。民間産業への資本の供給の復活にとって望ましくない。恐慌は、大規模な公的負債は民間負債よりも、再調整にとって大きな障害である。… …政府が景気回復のために行なうべき事は、その浪費という昔の癖に戻るのではなく、現時点において景気回復の始まりすら阻害している貿易や自由な資本移動(新株発行を含む)への規制を撤廃することである。」ロンドン・タイムス紙上での公開書簡
古典派・新古典派・超古典派
マーシャル :待っていればいずれ貯蓄を取り崩して均衡状態が戻ってくる
ハイエク :投資不足が失業の原因だから規制を撤廃せよ
フリードマン :失業は「失業者の投資の過剰」が原因だから金融を引き締めろ(労働者も経済人とみる)
ルーカス :失業も均衡のうちだから、失業率は「自然失業率」である。現状は常に最適状態であり、景気安定化に関して政府に出来ることは何もないし、そもそもその必要もない。
素朴な貨幣中立説
まとめて言えば彼らは「自由放任」の信奉者であり、ルーカスに至るまで貨幣数量説、貨幣中立説、貨幣ヴェール説の信奉者である。実質で考えている限り流動性選好の入り込む隙間はない。
大根は貯蓄しておけないから、売れ残りはほどなくして廃棄物となる。労働力も使われなければ消滅してしまう。しかし労働者を廃棄するわけにはいかない。だから失業が問題となるのだ。
それに対して、貨幣は貯蓄しておける。しかも貨幣を所有し続けることが無上の快楽であれば、いつまでも所有しておけるのだ。
現代の政策当局は
現実の政治家や金融財政の当局者は、フリードマンやルーカスのようなことは言わない。「当局にできることは何もない」と言った瞬間に首が飛び、政権が崩壊するからだ。「何もできることがないならそこに座っている必要もないだろう」というわけだ。
しかし、フリードマンもルーカスも何も教えてくれない。だから裏ではケインズ的政策を行う。しかし、今の各国がやっていることだが、現代正統派的にケインズ政策の「一部」を行っても意味はない。
「異次元の金融緩和」と「緊縮財政」の組み合わせはその最たるものである。