よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

第23章 重商主義、高利禁止法、スタンプ付き貨幣および過少消費理論に関する覚書 下  (反古典派の系列について)

2022年04月27日 | 一般理論を読む 改訂版
 先行する議論を検討することによって一般理論の特徴が鮮明になっているのがこの章である。読むのは大変だが興味深い章となっている。先行する反古典派としてシルヴィオ・ゲゼル、マンデヴィル、ホブソンとマクマリー、ダグラス少佐が登場する。いちいち紹介することはしないので原著に当たっていただきたい。

高利禁止法・スタンプ付き貨幣

 前回までは、重商主義を検討し、自主的な利子率決定と国家的な投資計画が利用可能になった現在、貿易黒字によって国内の貨幣量を増加させようとする政策に意味はなくなったとしていた。
 高利禁止法とスタンプ付き貨幣はケインズの利子率理論の展開である。古典派の議論に立てば利子率には資金の需給による自動調整機構が備わっているのだから、人為的に利子率を操作しようとする試みは、すべて愚の骨頂と言うことになる。しかし、「利子率は社会的利益に最も合致した水準に自己調整されるのではなく、絶えず高水準へと上昇する傾向があって、そのため、賢明な政府は法や慣習により、時には道徳律の規制力に訴えることまでして利子率を抑制することに心を砕く(べきである)」と言う高利禁止の議論はケインズが始めたものではない。先行者としてシルヴィオ・ゲゼル(扉絵肖像写真の人(1861-1930)の名前が挙げられている。

 彼は実践的には重要な提言をしている。一般理論のゲゼル理論の紹介を引用する。

貨幣・利子理論に対するゲゼル独自の貢献は次のようなものである。
まず彼は利子率と資本の限界効率を峻別し、そのうえで、実物資本の増加率に限界を画すのは利子率だと論じる。次に、利子率は純粋に貨幣的現象であることを旨摘し、さらに、貨幣-利子率を重要ならしめる貨幣の特異性は次の事実、すなわち富の貯蔵手段としてそれを保有しても保有者が負担する持越費用は無視しうる程度にすぎず、持越費用を要する商品ストックのような富の形態が実際に収穫を生むのは貨幣が設定する標準のゆえだという事実にあることを指摘する。
彼は時代を問わず利子率が比較的安定していることを引き合いに出し、時代による物的事実の変動が利子率の観察された変動に比べれば比較にならないほど大きいとしたら、利子率が純粋に物的な事実に依存することはありえない、としている。すなわち(私の用語法で言うなら)、利子率は恒常的な心理的事実に依存して安定を保ってきたのに反し、大きく変動する〔物的〕事実のほうは主として資本の限界効率表を支配し、利子率ではなく、(多少なりとも安定した)所定の利子率の下で実物資本ストックが増加しうる、その率を決定してきた、ということである。

 一般理論の見事な要約となっている。その対策としてスタンプ付き紙幣が提案される。

彼はこう論じている。実物資本の増加は貨幣―利子率によって抑止されており、このブレーキが取り外されたら、現代の世界にあっては、実物資本は急激に増加し、即刻ではないにせよ、それほど時間が経過しないうちに、おそらくゼロの貨幣-利子率が当たり前になるだろう。こうして、第一に必要なことは貨幣-利子率を引き下げることであり、そのためには、と彼は指摘している、貨幣に他の非生産的な商品のストックと全く同様、持越費用を課すことである。ここに生まれたのがかの有名な「スタンプ付き」貨幣という処方箋である。

 スタンプ付き貨幣とは、毎月減価していく貨幣のことである。貨幣にも持ち越し費用を課そうという訳だ。笑ってはいけない。「期間限定商品券を配れ」だの「毎年1%消費税を上げろ」などという提案はいまだに絶えることはない。しかし貨幣があって流動性選好が生まれるのではなく、流動性選好があって貨幣がその対象となっているにすぎない。貨幣の持ち越し費用がゼロに近いことが問題だからといって、人為的に貨幣の持ち越し費用を上げたところで次に持ち越し費用の低い商品が流動性選好の対象となるだけである。現に金価格の上昇は止まることを知らない。大体「マイナス金利」論もこの延長にあるに過ぎない。ケインズも書いている通りだが、「貨幣も商品でありその持ち越し費用の差は程度の差に過ぎない」のである。紙幣以外のものが貨幣の代わりを務めるだけだ。魅力的な提案にはみえるが実効性はない。ただ、貨幣の持つ力は持ち越し費用がかからないという点を見抜いている。

 重商主義、高利禁止法、スタンプ付き貨幣は資本御限界効率と利子率の関係、すなわち投資誘因に注目した議論だったが、消費性向に注目した議論はどうだろう。

問題は「過少」消費なのか?

 古典派理論、現代正統派理論に汚染されていると最も陥りやすい罠がこの過少消費理論である。現代では需要喚起、消費刺激などという。
 消費が少なすぎるという裏には、公共の投資計画のことなど思いもよらない立場が存在している。この汚染は政治的、思想的立場を超えて大きく広がっている。個人の政治的思想的立場によって、タネが咲かせる花は違うはずだが基本的には同じように見えるところが恐ろしい。土壌に汚染物質が広がってしまうと同じような花しか咲かなくなるのだろうか?

「公共投資=無駄=悪」という図式こそ現代の荒野に咲き誇るアダバナ

 現代正統派は消費刺激策としては減税か給付金、投資刺激策としては企業減税しか提案しない。公共投資は「悪」だからであるが、この「公共投資=無駄=悪」という図式こそ現代の荒野に咲き誇るアダバナなのである。

 ホブソンとマムマリーも魅力的な人達である。少なくともケインズはそう評している。ホブソンはケインズと同時代人であって古典派批判において偉大な業績を残した経済学者である。「帝国主義論(1904)」を著しており、レーニンの「帝国主義論」よりかなり先行している。調べたわけではないがレーニンも読んでいるはずだ。
 ホブソンは、一般理論の一歩手前まで行っているが、一般理論に行き着かなかったのは利子率理論がなかったからだ、とケインズは言っている。というのは、ホブソンは、過剰投資=過少消費としているが、利子率理論がないから過剰貯蓄=過少投資が見えなくなっているのだ、というのがケインズの見立てである。多分そうなのだろう。逆に言えばケインズの利子率理論にこそ一般理論の精髄があるということである。
 最後にダグラス少佐のA+B理論についての言及が出てくるが、これは原文に当たっていただくことにして、一言付言すれば使用費用の話である。

 ケインズは、経済学説史のなかで孤立しているわけではない。先行者がいたからこそケインズが存在する。この章の終わりでケインズは次のように記している。尊敬の念がにじみ出ているではないか。

これらの人々は、
明快で首尾一貫し論理は平易なるも現実離れした仮定にもとづいて導出された謬説を奉ずることを潔しとせず、みずからの直観の命じるまま、たとえ暖昧で不完全ではあっても真理を究める途を選んだのである。




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