よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

第4章 単位の選定 (経済の基礎単位は総付加価値と総賃金だ)

2022年05月28日 | 一般理論を読む 改訂版
この章はなぜ何のために存在するのか?

 「第2編 定義と概念」は次の章から構成されている。
第4章 単位の選定
第5章 産出量と雇用の決定因としての期待
第6章 所得、貯蓄および投資の定義
付論   使用費用について
第7章 貯蓄と投資の意味―続論


 ケインズは第2編冒頭に次のように記している。

「私が本書を執筆するさい、議論の進捗を図るうえで最も障害になり、そのためなんらかの解決を見るまでは自分の考えを適切に表現することができないと思われた難題として、次の三つのものがある。すなわち、第一に、経済体系全体に関する問題にふさわしい単位の選定。第二に、経済分析において果たす期待の役割。そして第三に、所得の定義。」

 この三つの問題を解決しておこう、というのが第2編の目的である。そのなかでもこの第4章は「経済体系全体に関する問題にふさわしい単位の選定」に充てられている。つまり第4章は一般理論の「価値論」となる。

GDPはまやかしか?

 ケインズ当時から経済全体を数値化する試みはあった。経済全体を数値化するにはその単位が必要となる。ケインズは当時主流であった「国民分配分」という考え方を、以下のように紹介する。
  1. マーシャルとピグー教授の定義にかかる国民分配分は当期生産物の数量あるいは実質所得を表すものであって、産出量価値あるいは貨幣所得を表するのではない。
  2. しかもそれは、ある意味で、純産出量に依拠している。すなわち国民分配分が依拠しているのは、当期の経済活動と支払われた犠牲によって生み出され、生産開始時点で存在している実物資本ストックの損耗を控除した後に得られる、消費用あるいは資本ストックの留保のための社会の諸資源への純付加分である。

 しかし、とケインズは指摘する。

「さまざまな財・サービスから成る社会の生産物は計量不可能な――厳密に言うと、ある特殊な場合、たとえば、ある生産物のすべての構成項目が別の生産物にもそっくり同じ比率で含まれているような場合を除けば計量不可能な――非同質的複合体である。この事実は、上の定義によって数量科学を打ち立てようとすることへの重大な異議申立となる。」

 おっしゃるとおりである。実質GDPを計測するには物価水準という概念が必要となってくるが、物価水準の構成品目は日々変化するだろうし、産出量を構成する財・サービスの構成比も変化する。さらにケインズの言う通り「非同質的複合体」である。GDP神話などと言われる根拠でもある。ケインズも「種々雑多な物から構成された二つの通約不能の集合体はそのままでは量的分析の素材とはなりえないという事実」を指摘している。実質GDPは数量化できない。では名目GDPは何を反映するのだろうか。

では経済全体を計測する試みはそもそも不可能なのだろうか?
何を単位として計測するのか?

 ケインズの提案は以下のとおりである。

「それゆえ雇用理論を論じるさいには、たった二つの基本的な数量単位、すなわち貨幣価値量と雇用量だけを利用するよう、提案したい。このうち第一のもの(貨幣価値量)は厳密に同質的であるが、第二のもの(雇用量)もそうすることが可能である。たとえば、労働や給与払い事務職の等級や種類が異なっていても、相対報酬がある程度固定されているなら、通常労働の一時間の雇用をわれわれの単位とし、特殊労働の雇用についてはその報酬に比例して重みをつける、すなわち特殊労働一時間の報酬率が通常労働の二倍なら、その一時間を二単位と勘定することによって雇用量を定義してやれば、われわれの目的には十分かなうのである。雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶことにしよう。こうして、Eを賃金(および給与)総額、Wを賃金単位、Nを雇用量とすれば、E=N×Wとなる。」

 「雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶ」

 これがケインズが選定した単位である。裏には労働力が同質的複合体である、という認識がある。労働力が同質的であるというのには多くの反論があるだろう。最も素朴な反論は、人間には個性がある、というものだが、ここではそんな話をしているわけではない。第一に、労働力の質の多様性にともなって職の多様性があるわけではない。その逆である。第二に、労働力は上へも下へも、右にも左にも移動できる。自分の労働力の質が高いから、「いい仕事」に就けているんだとお考えの方も多かろう。個人にとってはそれでいいかもしれない。あなたの努力は報われた! しかし、経済全体を考えるときには、「いい仕事」があるからその職に就けるのだ、と考えた方がいい。あなたの「能力」がどれほど高くても、仕事がなければ、職には就けない。
 次節で、総産出量(≒GDP)は雇用量(≒賃金総額)の関数であるとして展開される。ここが価値論なのである。ここをしっかり学べば「成長神話」「脱成長」などというゴタクは並べないでも済む。

モノの値段を決めるのは均衡価格か?労働の価値か?

 この章は第2編の三つの目的:第一に、経済体系全体に関する問題にふさわしい単位の選定の問題に充てられている。第4章はケインズにとっての貨幣論であり価値論である。多分マルクスから多くを学んでいる。一般理論中最も資本論に近い箇所である。
 ただし、一般理論を読まずにこの解説だけを読んでも非常に分かりにくいと思われる。市場において鉄Xトンと綿Yトンが等価物として交換されているのはなぜか?という問いに対するケインズの答である。ただし原著にはこのような形の問いはない。筆者の解説としての問題設定である。

しかし、なぜこんなことが問題になるのだろう?

 古典派にとって、貨幣はヴェールに過ぎないので、鉄Xトンと綿Yトンに同じ貨幣価値があるのはなぜか?とは問題が立てられない。ではどうするのか?経済体系にとって必要とされる鉄の総量がαトンで綿の総量がβトンであるとする。鉄の産出量がαトンを超過(不足)していれば鉄の価格は下がり(上がり)、綿に関しても同じ事が起きる。かくして鉄と綿のみならず商品A1A2……Anが、経済体系全体にとって過不足なく調整され、まさに見えざる神の手が働いている自由放任の天国が現出する。貨幣は価格調整のための道具にすぎない、というわけだ。あえて、ここで分析を止めてしまうのである。
 しかし、相互に置換不能な商品A1A2……Anが何を基準に交換されているのかの説明はつかない。または、つけようとしない。また、ケインズも指摘しているように「純産出量を算出するために資本装備への純付加分を計量しようとするとき、困難はさらにいっそう大きくなる」この困難を抱えたままでは、使用価値の分析や投資に関わる長期期待を検討することなどできるはずがない。

価格には基準となるものがある

 マルクスは、この長い等価物の系列の最後に一般的等価物として金(貨幣)をもってきた。ケインズも鉄Xトン=綿Yトン=P円と考える。そして鉄にも綿にも同様に含まれているのは労働であるから、雇用理論の基礎となる単位として、賃金の貨幣価値と雇用量が提案される。

 ケインズはこう書く。
「雇用量を測る単位を労働単位と呼び、一労働単位の貨幣賃金を賃金単位と呼ぶことにしよう。こうして、Eを賃金(および給与)総額、Wを賃金単位、Nを雇用量とすれば、E=N×Wとなる」

 つまり、鉄Xトンと綿Yトンが等価物として交換されているのはそれぞれに含まれる賃金総額が同じだということである。これは製鉄労働者と製綿働者の賃金総額が等しいという意味ではない。前章で見たように、使用価値をしばらく捨象すれば、「N人を雇用することによる産出量の総供給価格をZとすれば、ZとNの関係は、Z=φ(N)と書くことができる。これを総供給関数と呼ぶことにする。同じく、企業者がN人の雇用から得られると期待する売上収入をDとすれば、DとNの関係は、D=f(N)と書くことができ、これは総需要関数と呼んでいい」この経済体系全体で見た総供給関数と総需要関数を個別産業(ここでは製鉄産業と製綿産業)に分解したときの賃金単位のことである。原材料の生産から最終商品までの長い連鎖のすべての労働が含まれる。総供給価格が雇用の費用に還元されたように、個々の産業の供給価格も雇用の費用に還元されるのだから、有効需要の原理から、等価は貨幣表示の賃金総額なのだということが導き出される。
 ケインズの説明では、ここで、単価P1の鉄Xトンと単価P2のYトンの綿が等価物であるということは、鉄の単位価格P1×X=綿の単位価格P2×Yという等式が成り立つということである。商品の単位価格は期待売上収入÷生産量である。期待売上収入も生産量も雇用量の関数だから両辺イコールとされる等価物は雇用量の関数であることになる。ここではごく簡単にした(しすぎて分からん)が、このケインズの証明の仕方は原著で読んで理解したときは「おおおッ」と思うので是非体験されたい。数式が並んでいるので敬遠されがちではあるが。
 実はここでもまた「先取り」が行われ、総供給価格が使用費用とそれを除いたものに分けられる。なぜ分けるのかというと総供給価格=期待売上収入を決める雇用量は直接生産に必要な量と使用費用にかかるものと二つあり関数の性質が違うからだが、ここではどうでもいい。
 どうでもいいというのは所定の企業ないし産業で見た場合は性質が違うが経済体系全体で見た場合には問題はなくなるからである。「与えられた環境において所定の総雇用は相異なる産業のあいだに一意に配分され、それゆえNrはNの関数であると仮定できるならば、なおいっそうの単純化が可能になる」というわけである。Nrは個々の産業の雇用量である。

貨幣は実体を覆い隠すヴェールではなく、独自の力を持つ

1)様々な財やサービスの一般的等価物が貨幣であるということ

2)賃金が貨幣で支払われるということ

3)人が貨幣に対して選好を持つこと

 は、同じことである。一般理論の中でも後に詳述されるので、ここではこれ以上触れないが、貨幣が様々な財やサービスの一般的等価物である、ということは一般理論の重要な前提となっている。古典派がなぜ「一般的等価物が貨幣である」=「お金があれば何でも買える」ということを認めようとしないのか?なぜ貨幣ヴェール説に立ってしまうのか?それは「供給は需要を創り出すというセイの法則」を前提としているからだ。セイの法則を前提としている限り、常に供給=需要であり「過剰」貯蓄という概念は成立しない。わかりにくいとは思うが、一般的等価物の基礎となるのはマルクスの抽象的社会的労働のことである。ケインズはマルクスから多くを学んでおり、言及はしないが隠してもいない。
 需要と供給は、価格を「ある水準」に持って行くための力とはなる。しかし、「ある水準」を決めることはできない。これが需給調整説と労働価値説の違いである。鉄の生産1トンに設備からの移転分がどれくらい含まれているか。需給調整説では問題の立てようすらないのである。

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