よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

第3章 有効需要の原理 (豊かさの中の貧困というパラドクス)

2022年05月28日 | 一般理論を読む 改訂版
社会が豊かになるほど所得から消費に回る割合は減っていく。貯蓄が増えていくわけだが、それに見合う投資がなければ、貯蓄あるいは所得は弱い投資誘因に見合う水準に減少するまで、貧しくなってしまう。これが日本経済の長期停滞の唯一の原因である。では投資はどのように引き上げるべきか。市場において解決できないなら、再配分と社会的投資によるしかない。のだが・・・

有効需要の概念は誤解されている

 一般理論「第1編序論」はこの章で終わる。ケインズの有効需要の原理の重要性は、いくら強調しも強調し過ぎることはない。なぜか?前回触れたセイの法則を否定しているからである。ゆえに、この章は難解である。難解である理由は、ほとんどの人が「商品が売れないと企業は市場から淘汰され、結局は需要と供給は一致するのではないか」とセイの法則を根拠なく信じているからである。根拠なく信じられていることが常識だとすると、一般理論はこの章で常識に挑戦している。だから難解なのである。さらに言うと「企業が市場から淘汰されるのは当たり前ではないか」という常識がある。「そんなことを言っているから構造改革が進まない」という常識がある。だから難解なのである。なお、この章での「賃金」は貨幣表示つまり名目賃金である。

 ここでは第4章、第5章で詳述される概念が先に登場する。そのためそれらの概念は「第二編定義と概念」で触れることとし、この章では最低限の記述を心掛ける。論旨は簡明である。

商品の需給均衡点と雇用の完全雇用点は一致するのか?

 この章では、産出量(これは雇用量の関数)に関する総供給関数と総需要関数が定義され、その交点における総需要が有効需要と呼ばれる。このときに完全雇用が成立しているかどうかは分からない、というのが「一般理論」の立場である。ここが分かると徐々に見えてくる。総供給=総需要となった地点で需給は均衡(*)するが、それが利用できる雇用を使い尽くした時とは限らないのである。そこで、ある雇用量のとき経済体系全体での「総」供給と「総」需要はどのように決まるかを分析し、その交点が雇用の均衡点となるのかならないのか検討しようというわけである。ここでの量はいずれも貨幣表示(*)である。
*均衡といっても古典派のような価格による均衡点ではない
*貨幣表示とは名目のこと。リカードは穀物表示だった

ケインズは総供給価格と総需要価格について次のように書いている。

  • N人を雇用することによる産出量の総供給価格をZとすれば、ZとNの関係は、Z=φ(N)と書くことができる。これを総供給関数と呼ぶことにする。同じく、企業者がN人の雇用から得られると期待する売上収入をDとすれば、DとNの関係は、D=f(N)と書くことができ、これは総需要関数と呼んでいい。
  • ところで、Nの所定の値について、そのときの期待売上収入が総供給価格よりも大きい。すなわちDがZよりも大きい場合には、雇用をN以上に増やそう、必要なら費用を競り上げてでも生産要素を獲得しようという誘因が企業者に生じ、ZとDが等しくなるまで、この誘因は続く。このようにして雇用量は総需要関数と総供給関数の交点で与えられることになる。というのも、この点こそは企業者の利潤期待が最大となる点だからである。総需要関数と総供給関数の交点におけるDの値を有効需要と呼ぶことにする。以上が雇用の一般理論の中味であり、それを詳論するのがわれわれの目的である。

*総需要価格は企業者がN人を雇用することで期待する売上収入のことである、文字通り。実現された売上ではない。

 この雇用の一般理論を概念図にするとこういうことになる。あくまで概念であって曲線の形状を云々してもはじまらない。

 

 雇用量N人の時の総需要価格(期待売上価格)が総供給価格を上回っていれば、企業者は雇用量をさらに増やそうとするだろう。しかし総供給関数と総需要関数の形状が上記のようなものであれば、いつか交点を持ちこれ以上雇用を増やしても赤字になるだけという地点に行き着く。交点の時の需要量(雇用量)が有効需要と呼ばれる。有効需要とは企業者にとって利潤を最大化する需要量である。しかし、この時の雇用量が完全雇用であるかどうかはわからないというのが一般理論の雇用理論である。なぜそれぞれの関数がこのような形状を持つのかは次に検討される。
 一方、古典派では常に供給は需要を創り出すので雇用関数は以下のようになる。




 古典派では総需要価格と総供給価格は常に一致しているから、関数も一致することになる。しかしそう書くと雇用を増やす動機がなくなってしまうので総需要価格>総供給価格とした。
 古典派にとって需要の制約はないのだから、雇用量の限界点まで雇用は増え続ける。雇用量の限界点とは完全雇用が達成されている地点であり、この時失業している人は「自発的に」失業しているとみなされる。すなわち古典派理論においては、調整的で一時的な場合を除いて、常に完全雇用が実現していることになる。古典派理論は完全雇用を理論の前提としている。「供給は自らの需要を創り出す」ということと「非自発的失業は存在しない(常に完全雇用は実現している)」ということは同値である。どちらかが否定されれば両方否定される、という関係にある。
 有効需要=完全雇用ではない。それは所与の条件の下で利潤極大化条件を満たす総需要量に過ぎない。それは利潤を極大化しようとする企業者が必要とする雇用量の上限を画する量であっても、その時に完全雇用が達成されているかどうかは分からない。では、雇用量以外に、労働力資源の枯渇以外に生産の拡大を停止させる要因とはなんだろうか?総需要関数の傾きが徐々に鈍くなるのはなぜか?逆に総供給関数の傾きが増えていくのはなぜか?それを探求するのが雇用理論の探求である。

ケインズ自身による第一篇のまとめ

 この章でケインズ自身の手になる「この理論」の要約が登場する。
 流動性選好、資本の限界効率、利子率理論、長期期待理論がなくてもここまでは論述できる、ということである。

  1. 技術、資源、費用の状態を所与としたとき、所得(貨幣所得と実質所得の両方)は雇用量Nに依存する。
  2. 社会の所得とそこから消費支出に充てられると期待される額――D1と記す――との関係は、われわれが消費性向と呼ぶ社会の心理的特性に依存する。すなわち、消費は、消費性向になんらかの変化がないかぎりは、総所得水準、したがって雇用水準Nに依存する。
  3. 企業者が雇用しようと決意する労働量Nは、二つの量すなわち社会が消費支出に充てると期待される額D1と新規投資に振り向けると期待される額D2との合計(D)に依存する。Dは先に有効需要と呼ばれたものである。
  4. фを総供給関数とすると、D1+D2=D=ф(N)、そして上記(二)で見たように、D1は消費性向に依存するNの関数――χ(N)と書いてよい――であるから、ф(N)―χ(N)=D2となる。
  5. それゆえ、均衡雇用量は、(イ)総供給関数φ、(口)消費性向χ、および(ハ)投資額D2に依存する。これが雇用の一般理論の核心である。
  6. 任意のNにつき、賃金財産業では一つの労働限界生産力が対応している。実質賃金を決定するのはこの限界生産力である。したがって⑤は、Nは実質賃金を労働の限界不効用と均等化せしめる値を超えることができないという制約条件に服する。これは、Dのすべての変化が貨幣賃金一定という当面の仮定と必ずしも両立するわけではないことを意味する。よってわれわれの理論を完全な姿で叙述しようとすれば、この仮定を取り払うことが不可欠となる。
  7. 古典派理論においては、Nのすべての値について、D=ф(N)が成立し、雇用量は、それがその最大値を超えさえしなければ、Nのすべての値について中立均衡の状態にある。だからこそ企業者のあいだの競争の力が雇用量をこの最大値にまで押し上げると期待されているのである。古典派理論では、この点でのみ、安定均衡が存在しうることになる。
  8. 雇用が増えるとD1も増えるが、その増え方はDほどではない。なぜなら、所得が増加すると消費は増えるが、その増え方は所得ほどではないからである。現実問題への鍵を握るのはこの心理法則である。というのも、この心理法則があるために、雇用量が増えれば増えるだけ、その生産物の総供給価格(Z)と企業者が消費者の支出から取り戻せると期待できる総額(D1)との開きはますます拡大していくことになるからである。だから、消費性向になんら変化がないとしたら、同時にD2も増えて、ZとD1の拡大していく開きを埋め合わせるのでないかぎり、雇用を増加させることはできない。こうして、雇用が増えるときにはいつでも、ZとD1の拡大する開きを埋めるに十分なだけD2を増大させるなんらかの力がはたらくという古典派理論の特殊な仮定に立脚しない場合には、完全雇用以下の水準、すなわち総需要関数と総供給関数の交点で与えられる水準Nで、経済体系が安定均衡状態に入る可能性も出て来るのである。

 要するに、所定の実質賃金に対応した労働供給は雇用の最大水準を画すにすぎず、雇用が実質賃金で測った労働の限界不効用によって決定されるわけではない。消費性向と新規投資率とが相俟って雇用量を決定し、その雇用量は所定の実質賃金水準に一意に関係づけられている。これが真相であり、その逆ではありえない。消費性向と新規投資率が十分な有効需要を与えない場合には、現実の雇用水準は現行実質賃金下の潜在的な労働供給量に満たず、均衡実質賃金は均衡雇用水準の労働の限界不効用より大きくなるであろう。」引用終わり

 ここまででは、賃金が高騰して利潤の全てが賃金に持っていかれてしまう、ということはあり得る(⑥)が、現実には、投資不足(資金の余剰)により、そのずっと前に「安定均衡状態」に入ることが多いのではないか(⑧)。その時に完全雇用状態である保証はない。ということを主張している。これは専門的な経済学者は認めようとしないが市井の人々は昔から知っていたことである。「賃金も上がらないのにまた不況になっちゃったよ」ってね。

完全雇用は達成できないのか?あるいは、なぜ貯蓄は社会を貧しくするのか?

 一般理論を読み進めているうちに分かってくるのは、「貯蓄が失業を作り出だす」ということである。第2編で展開されるが、第1編でもケインズはそのことを主張している。借金の返済も貯蓄の一種である。投資や消費に回ることのない貯蓄は資金の余剰であって、その分だけ現在での雇用を減らし将来の所得を減らす。貯蓄という行為が逆説的に社会を貧しくすることがありうる。価格変動で需給が均衡すると主張する古典派、現代正統派には、どうしてもこの点が理解できない。理論上認めるわけにはいかないのである。財政危機論者が必ず構造改革論者であって非自発的失業の存在を認めないのは、それなりに首尾一貫しているのだ。

非自発的失業とは

 有効需要不足という単語が一般理論にも登場し、世間でも言われるが、「完全雇用水準に対して有効需要が不足している」と言うべきであった。つまり、総需要関数と総供給関数の交点、需給の均衡点のときに完全雇用水準に達していないことがある(というより原理的には達しない。)という事実は、非自発的失業者の存在を導き出し、古典派経済学を根底から覆すことになる。そもそも非自発的失業の存在を認めない古典派ならびに現代正統派には、この有効需要≠完全雇用という問題自体が発生しないのだから。

なぜ、有効需要が完全雇用水準に対して不足するという事態が発生するのか?

 それは有効需要が消費と投資に依存しており、限界消費性向が低下した分だけ投資が増えるという保証が経済体系には組み込まれていないからである。
この章ではケインズは次のように説明している。

「雇用量がいかなる水準にあっても、その雇用量が正当化されるためには、総産出量のうちその雇用用水準において社会が消費しようとする量を上回る部分を吸収してやるだけの投資が当に存在しなくてはならないことになる。というのは、これだけの量の投資が存在しないと、企業者の収入は、その雇用量を提供しようという誘因を彼らに与える額を下回ってしまうからである。それゆえ、われわれの言う社会の消費性向が与えられると、均衡雇用水準、すなわち雇用者が全体としてもはや雇用を拡大したり縮小したりする誘因をもたないような水準は、当期の投資量に依存することになろう。当期の投資量はというと、われわれのいう投資誘因に依存し、さらに投資誘因は資本の限界効率表とさまざまな満期と危険をもつ貸付の利子率複合体との関係に依存することがわかるであろう。」

「社会が潜在能力の面で富裕であっても投資誘因が弱ければ、有効需要の原理がはたらいて現実の産出量を減少させずにはおかず、最後には、その潜在的な富にもかかわらず、消費を上回る余剰が、弱い投資誘因に見合う水準に減少するまで、貧しくなってしまうだろう。」

以上の分析は豊富の中の貧困というパラドクスに説明を与える。というのは有効需要が不足しているというただそれだけの理由で完全雇用水準に到達する以前に雇用の増加が止むかもしれないし、またしばしばそうなるものだからである。有効需要不足は労働の限界生産物価値が雇用の限界不効用をまだ上回っている場合でも生産の続行を制止するであろう。」

 この引用が、さきほどの問題「売れない製品を作っている企業は淘汰され、結局は“需要は自らの供給を生み出す”ことになる。しかし、そのように企業が淘汰されていく先に何が待っているのか。」に対するケインズの答えである。
ケインズは一般理論結語の部分でこう述べている。

「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不公平なことである。」

 経済学は立場である。私は、完全雇用は達成されるべきであり、富と所得の分配は公平であるべきだ、との立場にたっている。

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