ケインズは、「需要と供給が一致する状態を均衡と呼び、均衡は価格の変動によってもたらされる」という考え方に疑問を投げかける。これは労働市場だけではなく全ての市場(財・サービス)においてである。考えてみれば当たり前のことである。価格が半分になったことで需要が2倍になるだろうか?という素朴な疑問。これに古典派は答えられない。
常識的な古典派、非常識な一般理論
ケインズは自らの理論を古典派理論批判という形で展開する。古典派を批判するためには、まず古典派が何を言っているか理解しなければならない。ところが古典派は常識に立脚しているのでこれといった理論体系がない。批判する対象がはっきりしないのだ。そこでケインズはこの章で「古典派理論の公準」を定式化する。その「ケインズが定式化した古典派理論の公準」をケインズが批判しているのがこの章である。少々ややこしい。
古典派が、現代正統派もそうだが、失業問題をどう考えるかというと「労働者は高すぎる賃金を求めて自らの意志で失業している」と考える。つまり「失業者は怠け者」だという理論である。これは世間常識と合致しているのでなかなか崩しにくい。一般理論が難解と言われ、日経エコノミストの妄言が大歓迎されるのはこのためだ。「不満を言わなきゃ仕事なんていくらでもある」「とりあえず就職してから頑張ればいいんだ」「失業者に手厚い施策を行うと怠け者を生む」云々。
もちろん学者も政策担当者も、こんな居酒屋談義みたいなことは言わない。「雇用の需要と供給は賃金によって均衡する」という。我々が目にしている市場では商品の需要と供給は価格で均衡しているように見える。雇用もまたしかり、というわけである。これが「贅沢言わなきゃ仕事なんていくらでもある」という常識と合致するのだ。
ケインズは「古典派は明確な雇用理論を持たない」として彼自身の手で古典派の雇用理論を定式化している。それがこの「第2章 古典派理論の公準」である。公準とは聞きなれない言葉だが原文ではTHE POSTULATES OF THE CLASSICAL ECONOMICSだ。Postulateを辞書で引くと「名詞:仮定、公理。動詞:〈…を〉(自明なこととして)仮定する,(論理を発展させるために)前提とする」となっている。つまり「古典派が自明のこととしている前提」だ。自明なこととしている前提を疑うというのは常人のなせる業ではない。繰り返すが、ここで言う古典派経済学の公準とは、雇用量を決定する要因について古典派の考え方を、ケインズが定式化したものである。古典派がこのような公準を定式化しているわけではない。現代正統派が批判の対象とすべき何の理論もないように、古典派もその理論が成立する前提を明らかにしていない。
古典派理論の二つの「公準」
ケインズはまず公準を定式化し、その公準が成立するには何が必要なのか、その公準が成立するとしたらどのような結果になっているはずなのか、を探求していく。いわば背理法で古典派の命題が成立しないことを論証している。ケインズは古典派は二つの公準を前提としている、と言う。それぞれの公準の表現は難解である。
二つの公準とは
- 第1公準 賃金は労働の限界生産物に等しい
- 第2公準 労働雇用量が与えられたとき、その賃金の効用は、その雇用量の限界不効用に等しい
一読しても、わからない。どうだ!難解だろう!と言いたいところだ。この公準が何を言っているか理解するためには、そもそも古典派が、とくにリカードがどのように考えていたのかを理解する必要がある。
第1公準 賃金は労働の限界生産物に等しい
この命題を文字通りに解釈すれば、追加一単位の労働の生み出す付加価値が賃金と等しくなるということである。企業者にとっては、これ以上雇用を増やしてもすべては賃金に吸収され利潤を生まないことになる。つまりこれが雇用量の限界だというわけだ。賃金が上がるほど雇用量は減ることになり右下がりの曲線となる。
古典派は賃金は需給関係で決まる、と考える。商品価格が決まるのと同じだ。賃金は労働力という商品の価格である。これは間違いがない。問題はその価格は他の商品と同じように需給関係で決まるのか、ということである。古典派理論に立脚すると「賃金が高すぎるから労働力が売れない。賃金を下げれば失業は解決する。そんな安い賃金では生活できないというなら生活コスト削減の努力をしろ」というわけだ。商品が売れないのは高すぎるからだ。コスト削減の努力をしろ。というのと同じである。果たしてそうだろうか?ただし、古典派の賃金とは実質賃金のことであり、実質賃金とは、その賃金でどれだけの量の生活資材が手に入るか、それを例えば穀物単位で表示したものである。
穀物以外の生活資材は例えばシャツ1枚=穀物〇キロというように換算される。リカードはエンゲル係数が50という世界を対象としており、この穀物で表示する傾向が強い。ケインズは実質賃金を「現行貨幣賃金の賃金財等価物」と定義している。ここで賃金財とは賃金で購入される財、今でいう消費財に近い。古典派では需要と供給のバランスで賃金が上がったり下がったりする(労働の価格が需給調整をする)わけだが、古典派の特にリカードの論理はそう単純ではない。
なぜリカードは実質で考えたのか?穀物生産の収穫逓減法則が根底にある
労働の需要が高まれば名目賃金は上昇し穀物に対する需要も上昇する。なぜ需要が上昇するのかについてリカードは人口要因を考えている。「口」が増えれば穀物の需要も高まるというわけだ。マルサスを思い出した方もおられるだろう。つまりリカードの景気循環はかなり長期のものである。ところが、穀物は、《穀物の需要が高まれば地味の悪い土地にも作付けをしなければならない》という≪収穫逓減の法則≫すなわち単位収量の低下によって名目価格が上昇する。労働者にとっては往々にして名目賃金が上がったほどには実質賃金(その賃金で穀物が何キロ買えるか)は上がらないことになる。この差額は穀物生産者の懐に流れ込む。
もう少し詳しく言うと、穀物に対する需要が供給を超過したときは、最も生産性の悪い土地での穀物価格(地代+諸経費+賃金)で穀物全般の価格が決まる。地味の良い土地での穀物生産の利潤は大きくなり、地代も上がる。これを≪差額地代≫という。農業資本家の超過利潤、地主の不労所得である。なお、この時代の農業は自作農ではなく農業労働者を雇用する大農場であった。ゆえに農業をめぐる階級としては地主、農業資本家、農業労働者が存在する。階級という言葉に違和感を持たれるかもしれないが、古典派はそもそも諸階級への分配の理論である。国民が三つの階級に分かれていることを神の配慮として正当化する理論なのである。収穫は、生産の3要素=土地・設備(資本)・労働=地主・資本家・労働者のそれぞれへ地代・利潤・賃金として分配される、どこにも社会的不正義が介在する余地はない、というわけだ。
このように労働の追加一単位の利潤に対して、賃金と穀物生産者、地主の取り分は増えていき、商品生産者が、利潤を極大化させようとすれば、ついには利潤がゼロとなる地点まで雇用は拡大する。これは、実際にそこまで行かんだろう、という話ではなく、均衡点を探るための理論上の話である。この地点では、⊿粗利=⊿賃金となっており、古典派経済学の第1公準―賃金は労働の限界生産物に等しい―となる。
リカードの分析では、生産の制約要因が穀物の生産弾力性に係っており、そのために賃金が高騰する。エンゲル係数が50を超える時代である。穀物が安くなればまだまだ成長は可能つまり利潤増大が可能、という理論になる。だから地主の不労所得に反対して穀物法の撤廃、穀物の自由貿易を主張したのである。すべての産業が同じ生産の弾力性であれば、このような事態は起きないか、かなり先送りされるであろう。というわけだ。リカードの慧眼には頭が下がる。現代でも構造改革論者が食料輸入の「自由化」に熱心な理由である。現代でも、何かがボトルネックになって利潤が、賃金と何かに吸収されてしまうということは起きうる。石油ショックの時に、利潤は賃金とアラブのアブラに流れてしまったように。
第1公準は雇用需要曲線を与える。賃金が高くなれば労働需要は減るだろう、というわけだ。よって、右下がりの曲線となる。現代でも、「賃金は生産性の上昇を超えて上昇するわけにはいかない」という「生産性基準原理」として生き残っている。また、形を変えて「労働分配率を上げよう」などという空疎なスローガンともなっている。かなり先回りして言うと、労働力は需給がひっ迫したからといって、他の商品のように資本が移動して労働力という商品を増産することができない。資本家は設備投資による省力化以外に対抗する手段を持っていない。また労働力の余剰在庫が生じたからと言って倉庫にしまっておくこともできない。労働者は、賃金の引き下げに対抗する手段を持っていない。これは他の商品と異なった労働力商品の特殊性である。
第2公準 労働雇用量が与えられたとき、その賃金の効用は、その雇用量の限界不効用に等しい。
第1公準の与える需要関数が右下がりなので、図のように逆に右上がりの供給関数:雇用供給量=f(賃金)を与えれば必ず交点が存在し好都合だ。だが、賃金と雇用供給量は全然別物である。
別物であるというのは、一部の例外を除いて雇用供給量は賃金の関数ではないからである。現代日本では賃金水準が低下するほど雇用供給量は増加しているではないか。別物だが、労働供給曲線という架空の曲線を用いて、労働供給曲線=労働需要曲線の交点で賃金が決まると古典派は考える。理由は第1公準で説明したとおり、価格=賃金が需給をバランスさせると考えるから、労働供給曲線が右上がりでないと古典派理論は成立しない。
第二公準の意味だが、所与の雇用量の下で賃金の効用=労働の不効用が均衡点だとしている。感覚的理解のために、例えば、長時間労働を考えてみよう。ここでの労働の効用は賃金のことである。話を単純化するために時間外割増はないとする。時間とともに労働の不効用(疲労の蓄積とか)は増大し、それも指数関数的に増大するだろう。しかし、賃金は先ほどの前提から一次関数的にしか増大しない。そこでいつかは交叉し、労働の不効用と賃金の効用が一致する点が総労働時間数となる。これを労働者全体の「雇用量」に拡張したのが第2公準である。
この図は長時間労働の効用が「将来の出世」とか「メンバーシップの保持」とかの理由で労働の不効用と同じように増大するとしたら過労死に至る長時間労働の説明ともなる。その意味では有用だが、全体の雇用量に拡張することができない。
ともかく、第2公準によれば
労働の不効用>賃金の効用⇒労働を供給しないつまり、自発的に失業する
労働の不効用<賃金の効用⇒労働を供給する
というわけである。これは証明不可能な命題であるうえ、経験則とも合致しない。しかし、自由放任を旨として経済社会を叙述しようとすると、全ての経済単位(主体)は自由意志のもとで価格を決定し、売る、売らない、を決定するものとしなければならず、こういう前提を置かざるを得ない。しかし、そんな労働者がどこにいるのだろう?
もう少し、古典派理論に即して解説すると、第1公準のとおり、労働者にとって労働の追加1単位に対する実質賃金は名目賃金ほど上昇しない。というのは、リカードが労働力の枯渇より早く食料の枯渇が始まると考えているからだが、これ以上ここで書くと先に進み過ぎてしまう。ついにこれ以上労働供給量が増えても実質賃金が上昇しない点まで上昇する。そんな時に誰が働きに行くだろうか?というわけだ。賃金の上昇が全て物価の上昇に食われてしまう事態を想定すれば、その時労働者はこれ以上の労働供給を止めてしまうだろうか?そんなことはあるわけはないのだが。さきほどのリカードの理論ではこの時点を超えて労働供給を増大させようとすると企業者が労働の効用つまり賃金を増やさねばならず、第1公準と整合性を持つ。果たしてそうだろうか?理論の整合性を保つために、そのような経済主体を想定しているだけではないのだろうか?
古典派の雇用理論とは
古典派の公準とは、雇用理論を考える上での前提であった。その雇用理論は、第一公準は雇用の需要関数を与え、第二公準は雇用の供給関数を与える。賃金は労働力商品の価格だから需要と供給の二つの関数の交点が雇用の均衡点となる、というものである。
図では 実質賃金が均衡点より高いと需要が供給を下回り失業が発生し、逆に 実質賃金が均衡点より低いと需要が供給を上回り実質賃金が上昇することを示している。
古典派にしろ、現代正統派にしろ、実ははっきりとした理論はない。が、図のようなものを見せられると「そうかな」と思ってしまう。一時的に失業者が増えることがあっても、価格による調整で失業はなくなる。というのが概ね古典派の理論であろう。図では実質賃金が二つの曲線の交点まで下がれば失業はなくなる、と主張している。これは「贅沢言わなきゃ仕事はある」という「世間知」と結びついて強固な影響力を持ちイデオロギー化していくが、労働市場に価格調整を持ち込むと理論的に何が待っているのか考えようともしないし、考えるための理論もないのである。強固なイデオロギーにとらわれた人には現実が見えない。消費増税とコロナの二重苦で経済が惨憺たる現状を示していても「財政再建」は進んでいくのだ。
リカードのために付言しておく
リカードのために付言しておく
エンゲル係数が非常に高く、穀物生産の弾力性が低い、つまり追加需要1単位に対する穀物の生産増が低い状態では、古典派の第1公準が該当するケースがある。リカード理論が穀物法廃止の理論的主柱となった理由である。同時に貿易における比較優位理論を確立し自由貿易の提唱者であったことも知られている。
しかし、第1公準の裏返しとして第2公準=労働供給を考えることの是非はさておき、農業生産技術の発達と貿易によって穀物価格が低廉に抑えられ、エンゲル係数も低くなり、賃金財(賃金で購入される財)そのものが工業生産品になった時、つまり「差額地代」が消滅したとき、なお古典派理論の第1公準も通用するのだろうか。
ところが、ケインズの時代になっても古典派はその理論がよって立つ前提を顧みることなく、「労働を含めたすべての商品の需給は価格によって調整される」という理論を変えようとはしなかった。穀物生産の弾力性が生産(ケインズは総産出量と呼んでいる)の限界を画することがなくなった時、何が総産出量の限界を画するのだろうか?総産出量の限界を迎えたとき雇用量の増大は止まる。そのとき完全雇用は達成されているだろうか?現代正統派は総産出量の限界を画するのは「規制」だと言っているのだが、当時は何と言われていたのだろうか?
ケインズによる批判
古典派は、労働需給は価格(賃金)によって調整されるので、失業者は高すぎる賃金を求めて「自発的に」失業している、と考える。そうすると失業問題の解決は4つの方法しかなくなる、とケインズは言う。
ケインズによる批判
古典派は、労働需給は価格(賃金)によって調整されるので、失業者は高すぎる賃金を求めて「自発的に」失業している、と考える。そうすると失業問題の解決は4つの方法しかなくなる、とケインズは言う。
- 「衰退産業」から「成長産業」への労働力移動を円滑にする。(摩擦的失業対策)
- 名目に対する実質賃金を引き下げること(物価の上昇も理論的にありうるが難しい)
- そのために、賃金財産業の生産性を上げること(または安い消費財を輸入すること。一時はやった「価格破壊」)
- 非賃金財価格を賃金財に比べて割高にすること(贅沢品への課税等の手段で賃金財を割安にする)
さらに言うと
- 貨幣賃金(名目賃金)の引き下げに反対する労働者の抵抗を排除すること
非常に既視感のある方法である。新古典派の主張は現代まで連綿と続き、何の進歩もないことがわかるが、これに対するケインズの反論はこうである。
- 実質賃金の切り下げが賃金財価格の上昇によるものだとしたら、労働の引き上げを招くだろうか?
- 労働者は名目賃金の引き下げには抵抗するが、実質賃金の引き下げには抵抗する術がないのではないか?
- 実質賃金が下がれば労働者は労働を引き上げるなんてことがあったろうか?
- 実質所得維持のためむしろ労働供給量を増やそうとするのではないか?
等々の疑問を呈している。一般理論の全面展開まで全面的な反論はできないので、古典派の理論を徹底すればこんなことになってしまう、と反論しているのである。
雇用量の決定要因は、労働の価格とは別にある。ケインズは古典派の第1公準について次のような指摘を行っている。
「第1公準が意味するのは、組織、装備、そして技術を所与とすれば、実質賃金と産出量(したがって雇用量)とは一意の関係をもち、それゆえ雇用の増大が起こりうるのは、一般には、実質賃金率の低下に付随する場合に限る、ということである。」
総産出量が変わらなければ、雇用量×一人当たりの実質賃金は変わらず、したがって実質賃金が減少しなければ、雇用量は増えない、ということである。雇用量 × 一人当たりの実質賃金=定数なら、どちらかが減らないとどちらかが増えない。しかし総産出量不変という前提は正しいのだろうか?そんなことはあるのだろうか。
現代日本でも古典派の公準は生きている。ワークシェアとか言う筆者が一番嫌いな、そして人口に膾炙した概念である。しかし実際にワークシェアなんかやったら不況は永続化する。実際にしたし低賃金労働者を増大させた。不況の原因は別のところにある。当たり前のことだが、雇用量を決めるのは総産出量であってその逆ではない。では、なぜ総産出量が変わらなかったり、増加したり、減少したりするのだろうか?総産出量の決定要因はなんなのだろうか?この問いに答えたのがケインズの一般理論である。要は、GDPはどのように決まっているかという話なのだ。まさに、よみがえるケインズである。
ケインズの宣戦布告
今までは、ケインズは古典派理論の前提(公準)を明らかにし、その前提はおかしいのではないか、と言っているだけである。根本的な批判にはなっていない。その根本的な批判のためには何が必要か、この項の最後に出てくる。
この章の最後には、セイの法則「供給は自らの需要を生み出す」を引いて「生産物全体の需要価格はその供給価格に等しいとする想定こそ、古典派理論の「平行公理」と、称すべきものである。」と締めくくっている。平行公理というのはユークリッド幾何学の公理系のことである。現代正統派も暗黙の前提としてこの平行公理:古典派の公準とセイの法則を維持している。売れない製品を作っている企業は淘汰され、結局は「供給は自らの需要を生み出す」ことになるというわけだ。しかし、そのように企業が淘汰されていく先に何が待っているのか。次章以下で展開される。
ケインズはこの章で古典派に対して宣戦布告を行う。引用する。
「本章の処々で、われわれは古典派理論が次の諸仮定に依存していると考えた。順に言うと
- 実質賃金は現行雇用の限界不効用に等しい
- 厳密な意味での非自発的失業は存在しない
- 産出量と雇用がどのような水準にあったとしても総需要価格と総供給価格は等しくなるという意味で、供給は需要を創り出す
といっても、これら三つの仮定は、立つも一緒、倒れるも一緒、それらのいずれをとっても論理的に他の二つを包含しているという意味で、実質的には一に帰す。」
この「実質的には一に帰す」古典派理論を粉砕しようというわけである。古典派理論を、きわめて単純化して言うと、“神の見えざる手が存在し、自由放任の神の前では人間は何もすべきではない。その神とは「価格による需給調整」である”というものだ。ケインズは、それは間違っているという。どこが間違っているのだろうか?
なお、ここまで読んで賃金は実質で考えるべきか名目で考えるべきか疑問に思った人は「筋がいい」。正解は「場合によって」である。ちなみに第二章では基本的に「実質」で考えている。
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完全雇用の定義 の改訳案
訳書に当たると必ず引っかかることになるので載せておく。一般理論を手元に置いていない方は、すぐに注文していただきたいが、それまでは読み飛ばされても結構である。
ケインズはこの章で「完全雇用の定義」を示すが、その表現は少々難解である。が、ここを理解しておかないと次章で???となるので解説しておく。
間宮訳(非自発的失業の定義)
賃金財価格が貨幣賃金に比べて相対的にわずかばかり上昇したとき、この貨幣賃金と引き換えに働こうとする総労働供給とその賃金の下での総労働需要とが、ともに現在の雇用量よりも大きいなら、そのとき人々は非自発的失業の状態にある。
この訳は、間違っていないが、分からない。少なくとも筆者はまったく理解できなかった。
原文はこうである。
Men are involuntarily unemployed If, in the event of a small rise in the price of wage-goods relatively to the money-wage,both the aggregate supply of labour willing to work for the current money-wage and the aggregate demand for it at that wage would be greater than the existing volume of employment.
筆者直訳
賃金材の価格が貨幣賃金より多少上昇しているときに、現行貨幣賃金で働く意思を持つ労働者の供給量も現行貨幣賃金での労働者に対する需要量もともに現在の雇用量よりも大きいなら人は非自発的に失業しているのである。
筆者意訳
古典派の公準によれば、実質賃金が低下することによって労働供給は何ほどかは減る一方、労働需要は増えるはずだ。その時に失業している人は「自発的」かもしれないが、現に供給量も需要量も増えているのに失業している人がいる。この人は自発的とは言えないだろう。
古典派の公準と現実が食い違っていることを言っているだけで、定義は大げさである。供給量も需要量も増えたとしてもそれが完全雇用水準に達する保証はない。ケインズには「あんたの言っていることが正しいならこうなっているのはどういうわけ?」という言い方が多い。
実際には、ここまでの理論展開では非自発的失業は定義できない。