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「債務問題」「貿易問題」にかたを付けた(?)ので、今回から本題に入る。GDP統計の話である。今回と次回は統計自体の話となる。GDPの内訳だ。少々退屈だがお付き合いを願いたい。
国民経済計算(GDP統計)はどのようにGDP(支出側)を算出しているのだろう。これからGDPの内訳を見ていくが、その前にいくつか注意をうながしておきたいことがある。
国民経済計算
GDPは何の尺度か
まず、GDPは絶対的な尺度ではないということを理解していただきたい。日本のGDPが360兆円という時代があったが、その時と今を比べてどちらが国民は幸せか?という問いには、国民経済計算は答えを持ち合わせていない。そもそもこの種の問いに答えはあるのだろうか?
GDPは時系列を相対的に把握しようという統計である。同じ基準で取った統計を時系列で比較することにこそ意義がある。変化量にこそ意味があるのだ。GDPは、30年前から伸び率が鈍化し、1997年から完全な停滞状態に陥っている。この30年間のうちに労働の生産性を上げる技術革新は次々と導入されているから、GDP(支出側)=総需要が伸びなければ余剰の労働力が発生する。このようなことが分かるのがGDP統計なのである。
GDP統計に代わる国民の幸せを計る尺度などと言う議論が、いかに的外れな議論かお分かりいただけるだろうか。ついでに余計なことを書くと、私は自分が幸せかどうか人に決めてもらいたくないのだが、読者はどうだろうか。ただし、相対的貧困は客観的に測れることは付言しておく。
GDPは総需要を集計している
次に、GDP統計は支出側を集計したものである。財とサービスの産出量を集計しているのではない。消費と投資のために購入された財とサービスを集計している。つまり総需要を集計しているのだ。GDPはいわば「実現された総供給」であって、ケインズの言う有効需要のことであり、総供給は有効需要の制約を受けている。30年にわたる停滞は総需要の停滞である。生産性の停滞ではない。総需要が成長しないという予想の下で大きな投資もまた行われるはずがない。あり得るのは人件費削減のための省力化投資ぐらいのものである。
GDPとは総需要のことだ。これが分かっていない自称エコノミストばかりである。一人当たりの生産性をいくら上げたところで総需要が変わらなければGDPが増えるはずもなく、もっと悪いことに余剰労働力が発生する。
この総需要が変わらない理由を探求していくのが、本ブログの主旨である。
供給側しか見ない人々が何を考えているのか?
GDP統計のことを何と思っているのか?
そんなことも分からないで経済学者やエコノミストを騙っているのだろうか?
謎である。
名目か実質か?
これはケースバイケースだ。この間の政府は実質で見たがる傾向があるが、今の条件下では大きな誤解を招く。
デフレ下では、何もしなくとも実質で成長したように見えるときがある。気の滅入る話だが、商品単価が下がり続けるときに売り上げを維持しようとすればどうなるか。100円×100個=10,000円の売上が一個95円になれば10,000円の売上を獲得するために105.3個売らなければならない。これを5.3%成長したというのだろうか?さらに単価が下がったら、その分売上個数が増えるという保証はどこにもないのである。これはこの30年間、我々がいやになるほど経験してきたことだ。
財やサービスの交換は貨幣を媒介として行われる。「一般理論を読む」でも繰り返し指摘したように古典派・現代正統派は貨幣を無視し実質で考える傾向(貨幣数量説)があるが、この世には流動性選好というものが存在し、そして何より債務は貨幣ベースでやりとりされている。「10,000円分の商品で返済します」というわけにはいかない。これは個人・企業・政府みな同じである。「金に換えてから返済してくれ」と言われるに決まっている。実質で成長したとかいう人々(特に官庁エコノミスト)は、それで債務負担が軽くなるとでも思っているのだろうか?これもまた謎である。
ゆえに基本的には名目で見ていくことになる。特に断らない限りデータは名目(貨幣表示)である。
GDPの内訳
さてここからが本題だ。
2021年4-6月期のGDP統計を見てみよう。
この期の国内総生産(支出側)は年率換算で 544.42兆円だ。年率換算というのは各期の実額に季節変動値から年間にしたものである。
第一列は経済主体(家計・企業・政府)+貿易で分類してある。第二列は消費・投資の区分である。三部門の消費・投資それぞれを集計し足し合わせたものがGDPである。以下この区分に沿って議論を進めていくが相当大部なものになるかもしれない。辛抱強くお付き合いをお願いしたい。
家計の寄与
少々解説が必要なのは民間最終消費支出、家計最終消費支出、持ち家の帰属家賃だろう。
民間最終消費支出=家計最終消費支出+対家計民間非営利団体最終消費支出である。
消費支出の供給側を、民間企業と対家計民間非営利団体を分けているのでこういう区分となっているだけだ。民間企業の総供給だけでは対家計民間非営利団体の産出額が出てこない。日本の家計消費を5,000万世帯すべて調べて集計することはできない。そのため供給側で代用しているのだ。要するに民間最終消費支出=家計最終消費支出と考えていい。
この表では家計は消費しかないが、投資はないのだろうか?
持ち家の帰属家賃とはなんだろうか?
家計の住宅購入はどのようにカウントされるのか?
住宅はGDP統計上どのように扱われるのか?
住宅は民間企業が建設する。民間住宅はこの建設投資としてカウントされる。自分で居住する家屋の購入は家計の投資にはならない。これを家計の投資とカウントすると二重計上になってしまうからである。では家計が購入した住宅は、投資でないなら価値を産まないのか?それでは住宅投資は建設「投資」ではなくなってしまう。住宅投資の収益は売ってしまえば民間企業には帰属しないからである。だから家計の帰属家賃という概念が生まれた。
持ち家の収益分を消費していることにしているのだ。持ち家に住んでいる人は日々GDPに貢献する価値を産み出している。これは半分冗談で、そういう計算をしているというだけのことである。
政府の寄与
暗算が得意な人は政府の消費・投資が多すぎると感じたのではないだろうか。GDP統計でいう政府とは一般政府を指す。一般の原語はゼネラルで総政府のことだ。すなわち中央政府・地方政府(自治体)・社会保障基金のことである。中央政府には道路等の特別会計も含まれる。社会保障基金とは社会保険の会計のことだと考えておいていい。この表で見ると一般政府の財政規模は150兆円に迫っている。しかもこれには年金の再配分は含まれていない。小さな政府などと言うことはもはやありえない。大きな政府の大きな財政を何に使うのかが問われているのだ。
企業の寄与
企業は消費をしない。今日購入した財・サービスの価値は、いずれその企業が産出する財・サービスに転化されるからだ。ゆえにGDP統計にカウントされるのは、在庫投資を含めた投資のみとなる。
企業の成長は、売上高や最終利益をもって測られることが多い。しかしGDP統計上は投資のみがカウントされる。いくら利益を上げてもそれを投資に回さないで、ただただお金を積み上げている企業にはGDP統計上存在意義はない。
このことを誤解している人がほとんどだ。供給側の経済学:古典派・現代正統派はもちろんである。
だから「アベノミクスを象徴する好調な日本の企業収益:主要企業334社で構成されるラッセル野村大型株の連結経常利益は、16年度で41.3兆円と過去最高利益を連続で更新し、水準もリーマンショック前の最も良かった07年度の35.7兆円を16%上回っている。これは主力製造業の回復と非製造業・サービスの成長によるもので、07年度を100として16年度は製造業が92、非製造業が150となっている。(野村證券金融経済研究所 シニア・リサーチ・フェロー 海津 政信,2017)」などと平気で書ける。
別に海津氏に恨みがあるわけではない。申し訳ないが、検索上位で引っかかっただけだ。この種の言説は枚挙にいとまがない。彼にとっては連結経常利益が過去最高利益を連続で更新している状態を成長というらしい。ただただ国民経済の成長=企業の「成長」と素朴に信じているだけだ。まさに古典派・現代正統派である。ただその無知には呆れかえるしかないが・・・
筆者の品格に反して毒づけば「なにがシニア・リサーチ・フェローやねん」
逆(?)の立場の人々には成長という言葉を忌み嫌う人が多い。こういう人々もまた国民経済の成長=企業の「成長」と考えているので本質的には古典派・現代正統派と変わりがない。コインの裏表である。この種の言説もまた容易に見つかる。
「井手:先述したように、岸田さんの政策は僕たちと近いです。ただ、依然成長にこだわり「成長と分配の好循環」に言及しているのは、民主党政権の時と代わり映えしません。「新しい日本型資本主義」と言う以上、成長なき時代を念頭においた政策モデルを考える責任があります。10年間増税しないというのは、アメリカやイギリスと比べて無責任な気がしますね。」
(安心して働ける社会をどうつくるか ベーシックサービスという革命/神津里季生・井手英策対談:成長を前提にしない社会ビジョン、労組のあり方、岸田政権、野党……語り尽くす 吉田貴文 論座編集部)
成長を「企業の成長」と読み替えれば、なんとなく意味は通じる。でもそうは言っていない。どちらに転んでもお先真っ暗だが、この人々の良心や教養を疑っているわけではない。全般的な経済学の水準がここまで落ち込んでいるということだ。「依然成長にこだわ」ってはなぜいけないのか?
ここは以下の投稿を参照されたい。
「13:第3章 有効需要の原理 ケインズによる要約」
以降、GDP統計の内訳に従って三部門(家計・政府・企業)を分析していく。順番は今回とは違って家計⇒企業⇒政府という順番になる。日本経済の停滞からの脱出を図るなら、この順番に役割が大きくなるからだ。
*扉絵は投資なしに収穫はないことを示す
*「成長なき時代を念頭においた政策モデル」⇒そんなんいらんわ
*ちなみに筆者は、資本主義経済体制下で人々の労働力がより高く評価される状態を「成長」と呼んでいる。イエレンの言う高圧経済が近いと思う。それは違う、というなら代わりの語句を提案していただきたい。上記の言説を「(企業の)成長なき時代を念頭においた政策モデル」と読み替えても財・サービスの供給主体は企業である。あまり意味を持たない。
*もっとも企業の存在を否定して日本経済の供給主体を、全て家族経営にするとか各個人が自給自足の生活を送れとかいう、要は資本主義以前に復古せよ!というなら別だが。それはそれで「先生ご自身でやってください。尊敬します」というしかない。余計な事だった。