よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

1-02:その人たちは供給側からしか物事を考えられない キャーッ!  GDPをめぐる通説はここが間違っている 

2021年10月04日 | 日本経済分析
供給側か需要側か、それが問題だ

 「日本の生産性は低い」「解雇規制が問題だ」「国際競争力は低下している」「グローバルスタンダードにキャッチアップしていかなければ日本の未来はない」「成長を妨げている規制の撤廃が必要だ」云々。いやというほど目にしてきた言葉である。

 これらはすべて企業側(供給側)からみた問題の捉え方だ。企業活動がより自由に行えるようにすれば、生産性が上がり、あるいは生産性の低い企業も労働者も淘汰され、日本は長期停滞から脱出できるというのである。

  では、日本経済停滞の原因は供給側にあるのか? 

 GDP統計は実現された供給量すなわち需要に見合っただけの供給量を事後的に集計したものである。事後的に集計すれば供給=需要に見える。「供給は需要を創り出す」といういわゆる「セイの法則」が成り立っているかのように見えてしまう。だから古典派・現代正統派、その亜流である自称他称「エコノミスト」が後を絶たない。
 
 この仮構を見抜いたのはケインズ以外ではマルクスだけである。(とケインズが言っている)

GDPは人間が創造した価値の総計だが・・・

 GDPは、一国が国内で一年間に、創造した付加価値額の総計である。
 付加価値を創造するのが人間だとすると一国のGDPは次のような式で表すことができる。

①就業者数×一人当たり付加価値額=国内総付加価値額(GDP)
*就業者=自営業主+家族従業者+雇用者

 「表すことができる」と書いたが、これはGDPの定義上、表すことができるだけでこの式自体には何の意味もない。次のように書くと少し意味が出てくる。

②就業者数×一人当たり付加価値額=GDP=総需要

 しかし、さらに次のように書いてしまうと問題が出現する。

総供給=就業者数×一人当たり付加価値額=GDP=総需要
ゆえに総供給=総需要

  総需要を実現された売上(総供給)と定義すれば式②のように書くことは正しい。が、この式③は間違いである。

 式③が成立するには完全雇用が継続しているという条件が必要なのだ。

③総供給=就業者数×一人当たり付加価値額=GDP=総需要
 完全雇用が継続しているという条件下では総供給=総需要

 ただし、式①②③はいずれもそれ自体では意味がない。問題は総供給と総需要それぞれの決定要因であってそれを探求するのが経済学に課された使命だからである。たまたま総供給=総需要になっていても常にそうなるとは限らない。むしろ総供給≠総需要の方が常態だ。ケインズ経済理論が探求した課題である。

 ところが新古典派・現代正統派は常に総供給=総需要という前提に立つ。「供給は需要を創り出す」といういわゆる「セイの法則」の前提の上に立っているからである。(一般理論「第2章古典派理論の公準」、本ブログ「07:第2章 古典派への宣戦布告」)

常に総供給=総需要という前提

 だから古典派・現代正統派は、国民経済が停滞している原因を探るときに式①の左辺の供給側、すなわち 就業者数×一人当たり付加価値額 に注目する。しかもセイの法則を暗黙の前提にしているので左辺の供給側しか注目しない。一人当たり付加価値額が停滞しているから国民経済も停滞していると考えるのだ。

 売れない財・サービスを供給している企業は淘汰され、結果として供給は需要と一致していくはずである。それがいつまでも一致しないのは「純粋な、自立した経済過程」に邪魔が入っているからだと考える。このような通説となっている古典派・現代正統派は、その分析に論理的欠陥があるというより、その暗黙の前提が現実の世界とかけ離れているところに間違いがあるのだ。(*1)

 次回、古典派・現代正統派の典型的な主張を取り上げる。書きぶりは辛らつにならざるを得ないが、彼らの素朴な無知をあざ笑っているわけではない。こちらは真剣である。

 最後に一般理論からの引用を掲げる。上記の引用元だ。見出しは筆者がつけたものである。

*1 古典派理論は完全雇用下でのみ有効である

 通説となっている古典派理論は、その分析に論理的欠陥があるというより、その暗黙の前提が現実の世界とかけ離れているところに間違いがある。その結果、古典派理論は現実の世界の経済問題を解決することができないのである。しかし本書で提唱するような中央政府によるコントロールが導入されて完全雇用水準に一致する産出量が達成されたら、そこから先は古典派理論が通用するようになるのである。民間部門の営利追求動機が、何を生産するか、どのような生産要素が生産と結合されるか、最終生産物がどのように分配されるかを決定していく過程を分析する古典派の理論的枠組みは、総産出量が所与の場合、その総産出量の枠内では立派に通用する*2。
(一般理論第24章、本ブログ「80:逐条解説:第24章 一般理論から導き出される社会哲学上の結論 第3節」)


*2 総産出量が所与の場合、その総産出量の枠内では立派に通用する
 GDP統計は期末での数値であり、文字通り静的な統計である。ある一瞬を切り取ったものに過ぎない 。実現された供給=需要となっている。
 しかし一般理論で学んだように企業者は供給量を期待によって決める。その供給量と需要量が一致する保証はどこにもない。だから総供給≠総需要となるのだ。
 期待に支配される、過程をともなった構造。これが我々の住む経済なのである。「過程をともなった構造」という概念を考えたのはアルチュセールであった。これを岩井克人氏は不均衡動学の理論と呼んだがまさにその通りである。


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