ケインズは大恐慌の勃発、経済変動の大転換点で社会主義を展望する。これは弁証法的唯物論だ。
完全雇用状態にあって、資本の限界効率に等しい利子率で社会が貯蓄を行い、その貯蓄量に見合った率で〔資本〕蓄積が進むと、それに応じて資本の限界効率はしだいに低下していく。このとき、理由は何にせよ、もし利子率が資本の限界効率と歩調をそろえて低下することができないとしたら、その場合には富を保有しようとする欲求を経済的収益を全く生まない資産に振り向けるだけでも、経済的厚生は増進するだろう。大富豪が、この世の住処として豪壮な邸宅を構え、死後の安息所としてピラミッドを建設するといったことに満足を見出したり、あるいはまた生前の罪滅ぼしのために大聖堂を造営したり修道院や海外布教団に寄進したりするならば、そのかぎりで、豊富な資本が豊富な生産物と齟齬を来す日が来るのを先延ばしできるかもしれない。貯蓄を用いて「地中に穴を掘ること」にお金を費やすなら、雇用を増加させるばかりか、有用な財・サーヴィスからなる実質国民分配分をも増加させるであろう。だが、ひとたび有効需要を左右する要因をわがものとした日には、分別ある社会が場当たり的でしばしば浪費的でさえあるこのような緩和策に甘んじて依存し続ける理由はない。
資本の限界効率<利子率となっているので、経済的利益を生むような投資は発生しえない。だから貯蓄の対応物として「地中に穴を掘ること」でも有用となるのである。問題は貯蓄―投資バランスなのである。
最後にケインズ型社会主義のようなものが構想される。
さまざまな手段を講じることにより、利子率を完全雇用に対応する投資率に見合うようにすることが可能だとしよう。さらに、国家が平衡化要因として介入し、資本装備を飽和点に近づけるよう増加させるが、その率は現世代の生活水準に不相応の負担をかけるようなものではないとしよう。
このような想定にもとづけば、現代的な技術資源を装備し人口増加が急ではない適切に運営されている社会なら、一世代のうちに資本の限界効率をゼロにまで低下させることができるはずである。そして、われわれは準定常的な社会に立ち至るであろう。そこでは、変化と進歩は技術、嗜好、人口、制度の変化だけによって起こり、資本の生産物は、資本費用がわずかしか含まれていない消費財価格を支配するのと同じ原理により、生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される。
資本の限界効率がゼロとなるほど資本財を潤沢ならしめるのは比較的たやすいという私の想定が正しければ、それ〔を実行に移すの〕は資本主義の好ましからざる特徴の多くを少しずつ取り除いていくための最も思慮ある行き方だと言えるかもしれない。というのも、蓄積された富の収穫率が徐々に消滅していくことで社会にいかに大きな社会変革がもたらされるか、少し考えてみれば明らかだからである。人は相変わらず稼いだ所得を後日それを使うために自由に蓄積することができる。しかし彼の蓄積は増えることはない(*)。彼の立場はポープの父親と似通ったものであって、この父親は事業から身を引くと、ギニー金貨のいっばい詰まった箱を携えてトゥーケナムの別荘に隠棲し、生活用の出費はそのつど箱のお金で充てたのだった。(*金利が付かない、ということを言っている)
金利生活者は絶えていなくなるであろうが、意見が分かれることもありうる期待収益を予想する企業活動や技量には、なお存在の余地があるだろう。というのは、上述した事柄は主として危険その他への手当を除外した純粋利子率に関わるものであって、危険報酬を含む資産の粗収益に関するものではないからである。かくして、純利子率が負の値にとどまるのでないかぎり、期待収益が不確かな個々の資産に対する熟達した投資にはやはり正の収益が帰属するだろう。もし危険を引き受けることに多少なりとも抵抗があるとしたら、このような資産を全体としてみた場合には、そこからある期間にわたって〔危険報酬を加味した〕正の純収益が得られることもあろう。しかし同じ状況の下で、不確かな投資から収益を得ようといくら頑張ってみても、総体としては負の純収益しか得られないこともありえないわけではない。
金利も資本の限界効率もゼロの社会、生産物に体化された労働その他に比例した価格で販売される社会。これは搾取が廃絶された社会主義ではなかろうか?
この裏にはこの章の冒頭で展開される希少性理論がある。資本が収益を生むのはそれが希少性を有しているからだ、という展開があって初めて上記展開が成り立つ。
現代、資本の限界効率はゼロとなり、利子率もゼロなんだが、我々はどこで間違えたのだろうか?
資本の限界効率が原理的にゼロとなった現代において、SDGS(*)だ、脱炭素だ、リニアだ、5Gだと言って利益を生み出そうと努力しているようだが、社会の「富」は労働によって生み出される。それこそ彼らが最も嫌う「規制」によって、あるいは最も好む「効率化」によって、生み出される富などありはしない。
全編を通じてケインズは金利生活者を無為徒食の徒として排撃している。ところが、我々の時代には金利生活者は賞賛の的である。無為徒食の徒であることにかわりはないが。
さていよいよ、世上難解と言われている一般理論の中でも超難解と言われている「第17章 利子と貨幣の本質的特性」である。心して掛ろう。
- 「SDGS」には貧困や格差を放置しておくと社会は安定性を失う、反貧困・反格差にこそ社会の持続可能性がある、という理念があるが、日本ではそれが抜け落ちて循環型社会のことになってしまっている。だから巨大企業も看板に掲げられるようになっているのだ。
- 気候変動⇒脱炭素はさらに始末が悪い。排出権取引市場や炭素税などと考えていることがみえみえだ。ありもしない危機を煽りそれを市場化するなど呪術師とかわらない。呪術師は文化を遺すがそれすらないのである。
- 再エネ賦課金で検索すると「不都合な真実」が見えてくる。