よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
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77:覚書雑考:noteと言えば ハル・ノート

2020年12月30日 | 一般理論を読む
第6編 一般理論の示唆するもの――短い覚書について

 第6編は全3章からなるが、各章全て「覚書(note)」であり第6編そのものが「覚書(note)」だ。「Short Notes Suggested by the General Theory」
 ちなみに原著には訳書の「第6編」はついていない。
「第6編 一般理論の示唆するもの――短い覚書について」も多少の違和感がある。「一般理論の示唆するものについて―短い覚書」ではなかろうか?
 ところで

覚書(note)って何だ?

 第五編までは「論文」である。英語では「paper」に当たると思う。あるいは「essay」かもしれない。それに対して「note」というのは本編から独立した文書ということである。つまり本篇は第5編までで終わっているということになる。

ノートと言えば…

 ノートですぐ思い出すのはハル・ノートである。えっ、そうじゃない。ま、とりあえずそういうことで。

 United States Note to Japan ,November 26, 1941日米交渉11月26日米側提案(いわゆるハル・ノート)。当時の報道では「米側、文書を手交」となっている。この場合、アメリカの公式文書という意味であり、当事者のコーデル・ハル国務長官にちなんでいる。

閑話休題:ハル・ノートは「米の最後通牒」か?

 「アメリカの奴隷になるか戦争かを迫ったハル・ノート」などという言い方が未だに存在する。ネット上では当たり前のことをわざわざ書く人はいないので「ハル・ノート=米最後通牒」論のほうが優勢に見える。これは注意しなければいけないネットバイアスだろう。

 戦争を始めたのは、あるいは日本に始めさせたのはアメリカだと言いたいのだろうか?

 ハル・ノートは「到底飲めない内容を突き付けており」最後通牒だと言いたいのだろうか?


 全文は対訳付きでwebに上がっているのでご参照いただくことにして、国立公文書館のまとめでは以下のようになっている。引用中(三国協定骨抜き案)とあるのは当時の日本側資料にあったものだろう。また、(一)は、今でいう集団安保体制に当たる。

 四原則を承認するとは具体的にこういうことだ、というのが文書の中身である。

所謂四原則の承認を求めたるもの
(一)日米英「ソ」蘭支泰国間の相互不可侵条約締結  
(二)日米英蘭支泰国間の仏印不可侵並仏印ニ於ケル経済上の均等待遇に対する協定取扱
(三)支那及全仏印よりの日本軍の全面撤兵
(四)日米両国に於て支那に於ける蒋政権以外の政権を支持せさる確約
(五)支那に於ける治外法権及租界の撤廃
(六)最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約締結
(七)日米相互凍結令解除
(八)円「ドル」為替安定
 (九)日米両国が第三国との間に締結せる如何なる協定も本件協定及太平洋平和維持の目的に反するものと解せらるべきものを約す(三国協定骨抜き案)

この提案の中で触れられている「四原則」とは、いわゆる「ハル四原則」のことで、以下の4項目を指します。
1. 一切の国家の領土保全及主権の不可侵原則
2. 他の諸国の国内問題に対する不関与の原則
3. 通商上の機会及待遇の平等を含む平等原則
 4. 紛争の防止及平和的解決並に平和的方法及手続に依る国際情勢改善の為め国際協力及国際調停尊拠の原則

国立公文書館 アジア歴史資料センター


 誰にも否定できない原則を掲げ、その下で自国の権益を追求するアメリカのやり方は今も昔も変わっていない。もっとも、トランプ前大統領は違うみたいだが。
 
 これが外交の基本だろう。対中国門戸開放と言っている。日本だけで独占するなよ、と。

 しかし、飲めない内容だろうか?中国に加えて仏印で戦争行為を行っている日本に対し、手を引けば経済制裁を解除すると言っているだけだ。今なら当たり前だろう。ご親切に(九)「ドイツの尻馬に乗って戦争始めるなよ」とも書いてある。

 新聞見出しに「話し合ひ成立可能:英消息筋楽観」とあるように、当時の報道でも交渉の行方を楽観視している様子がうかがえる。

ではなぜ、対米開戦に踏み切ったのか?

 答えは同じ新聞記事にある。「赤都へ六里に迫る、独軍機甲部隊猛進撃」

 独軍対ソ勝利⇒ユーラシア枢軸化⇒米英と休戦という絵だろうが、希望的観測と妄想が五つ六つ入ってないか?人のふんどしで相撲取るなよ。情けない。

 ちなみにこの時期が独軍の最大進出ラインで、このあと攻勢は頓挫。反撃を食らう。日本の対ソ開戦がないと踏んだソ連がシベリア軍管区と極東軍管区から部隊をモスクワ防衛に回したのは有名な話である。

 さらに言うなら、独英休戦という万に一つあるかないかの機会を潰したのも日本の対米開戦である。独にとっても日本の対米開戦は予想外であった。独も不本意ながら対米開戦に踏み切る。米の参戦を待ち望んでいたのは、もちろん英国であった。なせなら当時米国は「欧州のことは欧州に任せておけ」という世論が主流だったのである。

 ちなみにアメリカファーストと最初に言い出したのは新聞王ハーストであり、ルーズベルトの熱烈な反対者だった。太平洋や大西洋の向こう側のことに関与すべきではない、ということだ。
 タラも、レバもないが、真珠湾を奇襲していなければ、アメリカの参戦はずっと遅れた可能性が高い。その場合でもDデイは実行されていただろう。なぜならヨーロッパ全土にソ連軍が進撃する事態は阻止しなければならないからである。

 年表では
 1941年6月  独ソ戦開始
 1941年7月  関東軍特種演習  
 1942年11月 ソ連軍スターリングラードにおいて反攻開始
 1943年1月 スターリングラード攻囲の枢軸軍降伏
 1943年5月 北アフリカの枢軸軍崩壊
 1944年6月 ノルマンディ上陸作戦 

 となり、一年遅れれば開戦の機を逃したと思われる。この時、旧軍が危惧したように燃料備蓄を含む対米戦力が圧倒的劣勢になっており開戦派が力を失った可能性すらある。だから1941年12月に開戦に踏み切ったのだろうが・・・  

 この時点で対英米開戦に踏み切ったのは、彼らにとっての国家の利益を考える強靭な理性がなかっただけだ。

 では開戦しなかったら(開戦の機を逃したら)その後の日本はどうなったであろうか?

 旧憲法のまま、地主制度は温存され、朝鮮、台湾は植民地として残り、その植民地解放闘争と対中戦争で国力を損耗し、世界大戦終結後に連合国の協力を得た中国軍に大陸から駆逐されていただろう。つまり戦後の高度成長は望めず、重化学工業化も電子化も(技術移転、資本移転の制約を受けたであろうから)なく、中進国でとどまっていたかもしれない。
 もう一つの可能性として、対米同盟がないのだから戦後革命の進展でソ連の衛星国化していたかもしれないが・・・ここまで行ったら架空戦記と変わらない。
 
* 2020年10月投稿を8月にちなんで改稿

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