よみがえるケインズ

ケインズの一般理論を基に日本の現代資本主義を読み解いています。
カテゴリーが多岐に渡りすぎて整理を検討中。

67:第五編のまとめ:古典派、現代正統派経済学の否定=ケインズが根本から袂を分かつ「この種の分析」

2021年01月29日 | 一般理論を読む
賃金を下げても完全雇用は達成できない

 第五編のケインズの論理展開はわかりにくい。
 それは
  1. 古典派の議論の背景にはこういう「理論」があるだろうと指摘し
  2. その理論を、その「理論」そのものによって論駁する
  3. そのために古典派理論が成立する前提を吟味し
  4. 実際の世界では何が起きているかを対置する
 という面倒な論理展開になっているからである。当時も今も常識に基づく古典派理論を反駁するにはこのようなやり方しかないのかもしれない。ただしうっかりすると、ケインズが定式化した古典派理論とケインズの一般理論が混交してしまい頭が混乱すること必至である。明敏な読者諸氏にはその心配はないのかもしれないが少なくとも筆者にはそうであった。(嫌味な語り口がケインズに似てきた?)

 そのようなケインズの論理展開は原文にあたってもらうことにして、ここでは筆者なりに大胆に書き換えていく。当然失われるものが非常に大きいことは頭に入れて以下を読んでいただきたい。

貨幣賃金の硬直性は悪なのか?

 古典派理論の想定する経済体系の自己調整的性格は貨幣賃金の伸縮性の仮定に基礎づけられるのが通例で、硬直性がある場合には決まったようにこの硬直性に不調整の責めが負わされてきたからである。

 つまり貨幣賃金が変動すれば完全雇用状態が維持されるというのが古典派の「理論」である。なぜなら 総需要=総産出量=一人当たり貨幣賃金×雇用量 だから一人当たり貨幣賃金が下がれば雇用量は増えるという暗黙の前提があるのだ。

 で、これこそがワークシェアリングとかいう理論なのである。本邦のナショナルセンターがこれを言い出した時、筆者は真面目に「〇してやろうか」と思った。

 総需要=総産出量=一人当たり貨幣賃金×雇用量 は事後的にはそうなるに過ぎない。この場合の総需要、総産出量は貨幣表示、さらに言えば貨幣賃金表示である。「事後的には」売れない商品を生産している企業は市場から撤退を迫られるので、結果として、事後的には、という意味である。総産出量が、いかに決定されるかと言えば期待消費と期待投資によってつまり期待需要、期待によって決まる。

 山から降りて蓑や笠を売りに行く「笠地蔵」の小生産者と違う近代工業化社会の特徴である。

 笠地蔵の世界も売れ残った笠を在庫とせず(資産目録から除外して)地蔵に寄進することが善行とされるのだから貨幣経済の中にはいるわけだが。

古典派理論の定式化

 古典派理論をケインズは以下のようにまとめている。このようにまとめてみると、これは理論の名に値しないことがよく分かる。どのような場合に真となりどのような場合に偽となるのかの条件がないからである。だから反証可能性がなく「この宇宙・世界は約6000年前に創造主によって創造されたものである」と唱えることと同じである。

  • 全ての需給は価格によって均衡する。
  • 現に需要が足りないのは価格が高いせいだ。在庫の山は価格を下げれば消化される。
  • 生産要素のなかで最も価格が下がりにくいのは賃金である。
  • この賃金の下方硬直性が景気回復を阻害している。
  • 価格が下がれば需要は回復し雇用も増大するであろう。

 こういう「理論」はいやになるほど聞かされてきた。現代では少し言い方が変わっているだけである。曰く「国際競争力の低下」「規制緩和」「価格破壊」「年功制から成果主義へ」「IT化」全て「高すぎる賃金」に経済体系の「不調整の責め」を負わせてきたのである。ケインズが根本から袂を分かつのはこのような命題である。

 ケインズは第3章有効需要の原理で既に一般理論を次のようにまとめている。

この段階で、やがて章を追って彫琢を加えていくことになる雇用の理論を簡単に要約しておくのが、たとえその一部始終を理解するのは難しいとしても、おそらく読者の手助けになるかもしれない。関係する用語はそのうちもっと綿密に定義するつもりである。この要約では、雇用労働一単位あたりの貨幣賃金その他の要素費用は一定であると仮定しよう。 もっとも、このような単純化を設けるのはひとえに説明を簡単にするためであつて、やがてお払い箱にする。貨幣賃金が変化してもしなくても、議論の本質的な性格に変わりはない。
理論は概略次のようなものである。雇用が増加すると、実質総所得も増加する。実質総所得が増加すれば総消費も増加するが、総消費の増加は所得の増加ほどではないというのが社会の心理である。だから、増加した雇用の全部が直接の消費需要を満たすため〔の生産〕に振り向けられると、雇用者は損失を被ることになろう。かくして、雇用量がいかなる水準にあっても、その雇用量が正当化されるためには、総産出量のうちその雇用用水準において社会が消費しようとする量を上回る部分を吸収してやるだけの投資が当に存在しなくてはならないことになる。というのは、これだけの量の投資が存在しないと、企業者の収入は、その雇用量を提供しようという誘因を彼らに与える額を下回ってしまうからである。それゆえ、われわれの言う社会の消費性向が与えられると、均衡雇用水準、すなわち雇用者が全体としてもはや雇用を拡大したり縮小したりする誘因をもたないような水準は、当期の投資量に依存することになろう。当期の投資量はというと、われわれのいう投資誘因に依存し、さらに投資誘因は資本の限界効率表とさまざまな満期と危険をもつ貸付の利子率複合体との関係に依存することがわかるであろう。
こうして、消費性向と新規投資率が与えられると、唯一の均衡雇用水準が決まることになる。

 消費性向、資本の限界効率、利子率が有効需要の総量を、従って雇用量を決めるのである。貨幣賃金ではない。ケインズは貨幣賃金の切り下げがこの三要因にどのような影響を及ぼすのか?及ぼさないのか?いろいろな条件の下で(ここが違うのだ)考察しているが、結論は変わらない。

 いろいろな条件の下で、予め考察するのが知識人の義務である。現実を理論によって後付けする連中を曲学阿世の徒と呼ぶ。

 

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