タックの庭仕事 -黄昏人生残日録-

≪ ニホンサクラソウ ≫

P1000756P1000784 古い本だが、鈴鹿冬三『日本サクラソウ』(日本放送協会)に、「日本サクラソウは江戸時代、すなわち寛文年間からその栽培が始められたといわれます。そして元禄、亨保、文化、文政、天保時代とますますその流行発達を見た純日本産の、いわゆる古典園芸植物で、少なくとも300年の栽培史があり、その清楚、可憐、優雅な風姿は、日本人の国民性にぴったりの草花といえましょう」という記述がある。P1000811P1000882
 私は、この本を手引きにして、昭和50年から、ニホンサクラソウの鉢植えを本格的に始め、28年間続けた。その間、品種も増え、最も多いときは、45品種に及んだ。関東を基準にした作業予定表は、釧路ではまったく当てはまらず、独自の表を作成し、用土や肥料も、釧路の気候に合うように工夫した。
 ニホンサクラソウの鉢植えには、基本的作法があるが、私はそれにはこだわらず、自分流で好きなように楽しんだ。4月初旬に、用土・鉢・名札・肥料等を準備し、中旬に、冬期間土中に埋まっていた鉢を取り出す。数日、鉢土を適度に乾燥させ、芽分けを行う。この芽分けの巧拙が、その年の開花の具合を80%左右する。言葉では表現できない、経験と勘の世界である。
 品種が分からなくなるのを防ぐため、三芽を選んで、残りはすべて捨てる。札落ちが出ないように、一鉢ごとに名札を確かめ、慎重に植え付け作業を行なった。早朝と土・日曜日を使って、45品種の芽分けと植え付けを終えるのは、大変な作業だった。いま振り返ると、よく28年間も続けられたと思う。
 止めたきっかけは、庭木の管理がすべて私に任されたことと、たまたま、平成14年の花後の生育が悪く、翌年春の芽分けが十分にできなかったことである。年齢的に、短期間に集中して行う芽分け作業への根気が薄れたせいもあるかもしれない。ともかく、生き残った芽を女房にオンコの根方に植えてもらい、終止符を打った。
 左上の手前桃色は<駅路の鈴>、奥の表白裏薄鴇色は<朱鷺の雛>、右の白色は<銀世界>、右上は<瑤台の夢>、右下は<銀覆輪>、左下は<明烏>という品種である。もっと多くの品種が庭に植えられていたはずだが、昨年の車庫工事の際、ユンボで土を掘り取ったため、無くなってしまったのを残念に思う。
   ?6月12日(火)、写真(品種は<明烏>)を一枚追加?

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