10/15の0:00過ぎ、反田恭平さんの3次予選の演奏が始まりました。
連日のショパンコンクール、全部観ているわけではありませんが、気になるピアニストの演奏は頑張って聴いているのと、気温も下がってきたせいか、
眠いです。
あまりの眠気に耐えられそうもなかったので、スマホを持って横になり演奏を聴いていましたが、多分マズルカの途中で意識不明。
目が覚めたら、反田さんの英雄ポロネーズが終わるところでした。
そして、長い長い拍手。一体何があったのだろうと思いながら、次の角野さんの葬送ソナタをを耳にしながら、深い眠りに…
聴きたいと思っていたショパンのラルゴ 変ホ長調と称する聖歌をライブで逃しましたが、あとから録画で視聴。短いですが、とてもきれいな曲ですね。
反田さんがポーランド留学中に、たまたま聖十字架教会の前のベンチに座り、横にボタンがあったので、押したらこのショパンの曲が流れてきたそうです。それ以来この曲を自分のコンサートで演奏し、いつかこれをコンクールで弾きたいと思っていたそうです。実現できて良かったですね。
曲名:
Boże, coś Polskę (God save Poland)
聖歌「神よ、ポーランドをお守りください」変ホ長調
この曲について、ポーランド音楽センターと国立ショパン研究所が解説していますので、抜粋し和訳&要約しました。
歴史的に侵略、分断、独立が何度も繰り返されてきたポーランドですが、1815年にこの曲が作られた当時のタイトルは「国王に神のご加護がありますように(God bless the king.)」でした。
1807年ポーランドは、ナポレオンに侵略されフランスの支配下になり、ワルシャワ公国として建国されます。その後ナポレオンはロシアに侵攻するも、寒さと食糧不足でロシアから撤退。1813年にロシアは、オーストリア軍と共に、ライプツィヒの戦いでナポレオン軍に反撃し破ります。ポーランドはロシアの支配下になり、ポーランド立憲王国として再建されます。当時のロシア皇帝アレクサンドル1世が、その国王を兼ねました。そのアレクサンドル1世を称える国王賛歌として作曲されたのがこの曲で、一方、ポーランド人の多くはフランスへ亡命し、なかなか国民に浸透しませんでした。
1817年、ナポレオン戦争時代にポーランド軍に入隊し交戦した経験のある詩人Antoni Goreckiが、「自由保持のための神への賛歌」として書き換え、その歌詞は国内外のポーランド人の間に浸透していきます。
1825年頃には、ミサの最後に「Boże, coś Polskę (God save Poland、 神よ、ポーランドをお守りください)」を歌う習慣がありました。当時15歳頃のショパンはその旋律を記憶していて、後にパリで、オルガン風にハーモニゼーション(和声づけ)したその旋律をスケッチし、「Paris, 6 July」と年号を記しているそうです。記録では1847年に作曲したとされています。
1828年以降は、「ポーランド軍への賛歌」として欧州各地で知れ渡りますが、1861年ロシア支配下のポーランド政府により、国歌としての使用が禁止されます。然し、国民の間に愛歌として記憶されているそのメロディーは、教会の讃美歌としていつまでも残されていきました。
タイトルが「神よ、ポーランドをお守りください」になるまでの過程、歌詞は書き換えられ、リフレイン(繰り返し強調する部分)は、戦争や独立等歴史的背景によって、次のように変わってきました。
Save our King, Lord ! (1816)
Return our Homeland to us, Lord ! (1830)
Bless our Homeland and freedom, Lord ! (1989)
Bless our free Homeland, Lord ! (1996)
Save our King, Lord ! (1816)
Return our Homeland to us, Lord ! (1830)
Bless our Homeland and freedom, Lord ! (1989)
Bless our free Homeland, Lord ! (1996)
ポーランドにとって、歴史的にも重要な曲であることは確かです。
反田さんが、この次に続けて弾いた曲、ポロネーズ6番「英雄」変イ長調 Op.53。
この「英雄」は、ベートーヴェンの「英雄」と間違えられますが、ナポレオンではありません。
1842年にショパンはフランスでこの曲を作曲し、その力強いリズムは、ポーランドの栄光を表し、ショパンの愛国心が感じられると評判となりました。
そもそもショパンは、このポロネーズに名前を付けていなかったのですが、ショパンが亡くなる1年前の1848年に、フランスで二月革命が勃発し、銃弾に倒れていく労働者達を、メディアが英雄と称賛し、音楽家や知識人達がこの活力のあるポロネーズを労働者達の象徴として盛り立てたことが由来のようです。
英雄ポロネーズも、母国のために闘ってきた人々を称える曲となったことには違いないので、ポーランド人だけでなくフランス人の心をも掴んだことでしょう。
反田さんが演奏後ステージを立ち去った後も、拍手がいつまでもいつまでも鳴りやまなかったのが印象的でした。