第五位は南北で併せて約三百年続いた、宋王朝の創始者、趙匡胤です。
実は今回のランキングでエントリーされて居る皇帝で、
彼が唯一、天下を統一して居ない皇帝なのです。
まぁ細かい話ですが…
(もっと細かい話をすると、始皇帝も実は正確には天下を統一してませんが…)
宋が天下を統一したのは、二代皇帝の太宗、弟の趙(匡義)でした。
しかし、趙匡胤の時代に、殆ど五代十国の動乱は収束に向かって居たし、
彼が宋の諸制度を整備して、それもほぼ終わっていたので、
実質天下人と考えても差し支え無いと思いました。
しかし、実は一説には、趙匡胤はその人徳から象徴の様に扱われただけで、
実際に宋の実権を握ってモロモロの統一事業や改革を行ったのは、
弟の趙匡義だと言う説も有るので、実際に天下統一も完成させている、
趙(匡義)と、この五位の受賞をどっちにするか悩んだ部分も有るのですが、
趙は少し黒い噂も多く、陰気な印象も有ります。
また、趙匡胤だからこそ丸く収まった。と言うエピソードも多く、
趙匡胤は明るい皇帝のイメージが有ります。
そう言う事で、兄の趙匡胤をランクインさせました。
彼は五代十国の動乱期から出て来た武人の、典型の様な登場の仕方をします。
彼の父親も後唐の将軍で、武人の家に生まれました。
その後成人して各地に仕官の口を求める旅に出掛けますが、
その中で、漢の将軍、郭威が広く天下に豪傑を求める募兵をして居たので、
彼に仕官しました。
その後郭威は、漢を引き継ぐ周の皇帝として即位、
その義子で有る柴栄に見込まれて、親衛隊の隊長の様な身分に成る等、
トントン拍子で出世して行きます。
勿論、この間は色々な戦場に主君と共に転戦して、
目覚しい戦功を挙げて居たからに他成りません。
そんな中、柴栄が若くして亡く成り、まだ少年の、子の宗訓が即位すると、
群雄割拠の乱世で、幼君では心許ない。として、
朝廷内や兵の中では、不安に動揺する者が多く出て来ます。
そんな中、敵襲が有り、近衛軍を率いて出陣する事に成った匡胤ですが、
途中軍を営所で休ませる事にしましたが、そこでとんでも無い事件が起こります。
営所で諸将と酒を飲み、気持ち良く成って寝入った匡胤に、
諸将が、匡胤に黄色いマント(皇帝の証)を被せて、万歳三唱をしてしまったのです。
これで事後承諾の様に成ってしまい、躊躇すれば謀反と成り、
もう後戻りは出来なく成りました。
そこで軍を都へ帰し、朝廷に参内して、帝から禅譲を受け、皇帝に即位してしまったのです。
酒に酔っ払って居る隙に皇帝にさせられていた。
と言う、何とも凄いエピソードです。
しかも、この様に力ずくで無く皆に推されて成る、と言う穏便な形での政権交代だったのと、
趙匡胤の人柄も有り、殆ど血を流さずに事が進んだ。
と言うのも、彼ならではだと思います。
皇帝に即位すると、柴栄もして居ましたが、更に近衛軍の強化を図り、
有力部下の精鋭兵を引き抜いたり、取り上げる等して、近衛軍に編入させたりして、
皇帝の軍事力を強化して、将軍の兵力を削減しました。
またその将軍から軍事力を取り上げるにも、おとぼけな面白いエピソードが有ります。
酒宴の席で、酔っ払って愚痴を言う様にして、自然と部下が兵力を削減する様にしたのです。
それは、部下が皇帝に成ってそれを祝賀するのですが、匡胤は不安気な顔で、
「皇帝に成れば、気分が良いと思ったが、逆に不安でおちおち寝れない」とこぼす。
すると部下は、「我々は忠臣ですので、陛下に弓を引く気は全く無いので安心して下さい」
と宥めると
匡胤は、「お前達が忠臣なのは解って居るが、
お前達の部下が、勝手にお前達に黄色いマントを着せて、万歳三唱してしまったら、
流石にお前達も断われないだろう?」とこぼすと、
部下達は、ハ!と気付き、匡胤に、ではどの様にすれば不安がらせないで大丈夫なのか?
と聞くと、「もう良い身分なので、野心が無ければ、文官として良い土地の長官に赴任すれば、
その給料で良い土地も購入できて広大な地主に成れる。
そうすれば、あとは一族が悠々自適に一生暮らせて幸せに成れると思うが」
と言う様な事を言うと、皆争って文官として赴任する事を希望した。
と言う事が有った。
この様に、酒を使ったりして、穏便に部下に権力の委譲をさせて行ったのは、
なかなか凄い人だと思う。
また、今までの中国の歴史だと、禅譲で譲られた以前の主君で有る、前王朝の皇族は、
用が済むと暗殺される事が多かったのだが、彼は前王朝を、
宋王朝の遺訓として、代々大切に保護する様に、として居る。
実際に周の皇族は、モンゴル帝国に宋が滅ぼされるその時まで、
宋の皇族と共に存続した。
また、官僚制度の改革を行い、科挙の最終試験には、皇帝自ら面接試験を行って、
官僚の合格者を選抜したりした。
この制度の始まりは、趙匡胤からの制度だ。
また、官僚は国の根幹である為、言論の自由を国是とし、
皇帝で有っても、言論に起因する事で、人を殺めては成らない。
と言う事も定めた。
この様に、色々な思想や意見を尊重し、官僚を優遇した事で、
非常に強固な官僚組織を作る事が出来た。
また、歴代の創始者は、創業が成ると、創業の功臣を少なからず粛清する者だが、
この趙匡胤は、第1位に成っている劉秀と並び、数少ない粛清をしなかった皇帝だった。
しかし逆に、官僚優遇(文治主義)に偏り過ぎ、軍縮等で武を軽んじて居た為に、
その軍隊は、歴代王朝でも最弱と評価を受ける事もしばしばで有った。
これにより周辺諸国と戦争すれば必ず負けてしまう体たらくで、
これにより、周辺の遼や、金、西夏、蒙古等の侵攻に、常に悩まされた。
それで、蒙古以外の国々には、毎年大量の賠償金を支払わされる事態に成った。
が、その代わり、戦争をせずに、国は長く平和を維持する事が出来た。
この頃の宋は、歴代中国王朝の中でも、一番経済的には充実した時期で、
経済力は特出した物が有った様だ。
軍事力は弱いが、経済力は一級。言わば、お金で平和を買って居たと言えなくも無い。
また、この王朝の首都は、江南からの物資が運河に因って集積される、
経済の要衝、開封を都としていて、前代の都、長安は、政治都市として世界に広く誇示して居たが、
この街は、まさに経済の都だった。
中国全土から商人が集まり、夜も屋台や商店が閉まる事も無く、
夜中じゅうも、街の灯かりが消える事が無い。と言う様な活況を呈して居たと言う。
まさに不夜城で有った。
また、開封の都は、国内複数の大都市の中で、東方に位置して居た為、
別名、東京(トンキン)とも呼ばれて居た。
まさに、「眠らない街、東京」で有る(笑)
(どこかのサッカーチームの応援歌みたいだな(苦笑))
この様に、お金で平和を買う。不夜城の都を持つ。等、するので、
よく宋王朝は、現在の日本と類似している。と言う指摘も有る。
とにかく、そんな平和を謳歌する。と言う方向性も、何だか王朝創始者の趙匡胤が
作った王朝。と言う感じがして、争いを好まない彼の性格を現して居る様で、その点は好感が持てる。
ここまで書くと、すこし平和ボケの元凶の皇帝にも感じるが、
皇帝に即位するまでは、獅子奮迅の働きにより、群雄割拠の動乱を納める為に大活躍して居るし、
周の下地を受け継いで居る。とは言え、周辺諸国を降す為の手腕も見事なものだった。
これらの軍事的才能は、彼よりも下位にランクされている皇帝達よりも、
優れた才能だと評価している。なので、5位と言う事で、評価させて頂きました。
本当ならば、下済み時代の武勇伝もかなり色々面白いのですが、
文章の分量の関係上、今回は割愛させて頂きました。
詳しくは、筆者が開設して居る中国の群雄割拠ページで、将来もっと詳細に、
彼の列伝として文章にしたいと思って居ますので、期待せずに(汗)更新を気長に御待ち下さい(苦笑)
実は今回のランキングでエントリーされて居る皇帝で、
彼が唯一、天下を統一して居ない皇帝なのです。
まぁ細かい話ですが…
(もっと細かい話をすると、始皇帝も実は正確には天下を統一してませんが…)
宋が天下を統一したのは、二代皇帝の太宗、弟の趙(匡義)でした。
しかし、趙匡胤の時代に、殆ど五代十国の動乱は収束に向かって居たし、
彼が宋の諸制度を整備して、それもほぼ終わっていたので、
実質天下人と考えても差し支え無いと思いました。
しかし、実は一説には、趙匡胤はその人徳から象徴の様に扱われただけで、
実際に宋の実権を握ってモロモロの統一事業や改革を行ったのは、
弟の趙匡義だと言う説も有るので、実際に天下統一も完成させている、
趙(匡義)と、この五位の受賞をどっちにするか悩んだ部分も有るのですが、
趙は少し黒い噂も多く、陰気な印象も有ります。
また、趙匡胤だからこそ丸く収まった。と言うエピソードも多く、
趙匡胤は明るい皇帝のイメージが有ります。
そう言う事で、兄の趙匡胤をランクインさせました。
彼は五代十国の動乱期から出て来た武人の、典型の様な登場の仕方をします。
彼の父親も後唐の将軍で、武人の家に生まれました。
その後成人して各地に仕官の口を求める旅に出掛けますが、
その中で、漢の将軍、郭威が広く天下に豪傑を求める募兵をして居たので、
彼に仕官しました。
その後郭威は、漢を引き継ぐ周の皇帝として即位、
その義子で有る柴栄に見込まれて、親衛隊の隊長の様な身分に成る等、
トントン拍子で出世して行きます。
勿論、この間は色々な戦場に主君と共に転戦して、
目覚しい戦功を挙げて居たからに他成りません。
そんな中、柴栄が若くして亡く成り、まだ少年の、子の宗訓が即位すると、
群雄割拠の乱世で、幼君では心許ない。として、
朝廷内や兵の中では、不安に動揺する者が多く出て来ます。
そんな中、敵襲が有り、近衛軍を率いて出陣する事に成った匡胤ですが、
途中軍を営所で休ませる事にしましたが、そこでとんでも無い事件が起こります。
営所で諸将と酒を飲み、気持ち良く成って寝入った匡胤に、
諸将が、匡胤に黄色いマント(皇帝の証)を被せて、万歳三唱をしてしまったのです。
これで事後承諾の様に成ってしまい、躊躇すれば謀反と成り、
もう後戻りは出来なく成りました。
そこで軍を都へ帰し、朝廷に参内して、帝から禅譲を受け、皇帝に即位してしまったのです。
酒に酔っ払って居る隙に皇帝にさせられていた。
と言う、何とも凄いエピソードです。
しかも、この様に力ずくで無く皆に推されて成る、と言う穏便な形での政権交代だったのと、
趙匡胤の人柄も有り、殆ど血を流さずに事が進んだ。
と言うのも、彼ならではだと思います。
皇帝に即位すると、柴栄もして居ましたが、更に近衛軍の強化を図り、
有力部下の精鋭兵を引き抜いたり、取り上げる等して、近衛軍に編入させたりして、
皇帝の軍事力を強化して、将軍の兵力を削減しました。
またその将軍から軍事力を取り上げるにも、おとぼけな面白いエピソードが有ります。
酒宴の席で、酔っ払って愚痴を言う様にして、自然と部下が兵力を削減する様にしたのです。
それは、部下が皇帝に成ってそれを祝賀するのですが、匡胤は不安気な顔で、
「皇帝に成れば、気分が良いと思ったが、逆に不安でおちおち寝れない」とこぼす。
すると部下は、「我々は忠臣ですので、陛下に弓を引く気は全く無いので安心して下さい」
と宥めると
匡胤は、「お前達が忠臣なのは解って居るが、
お前達の部下が、勝手にお前達に黄色いマントを着せて、万歳三唱してしまったら、
流石にお前達も断われないだろう?」とこぼすと、
部下達は、ハ!と気付き、匡胤に、ではどの様にすれば不安がらせないで大丈夫なのか?
と聞くと、「もう良い身分なので、野心が無ければ、文官として良い土地の長官に赴任すれば、
その給料で良い土地も購入できて広大な地主に成れる。
そうすれば、あとは一族が悠々自適に一生暮らせて幸せに成れると思うが」
と言う様な事を言うと、皆争って文官として赴任する事を希望した。
と言う事が有った。
この様に、酒を使ったりして、穏便に部下に権力の委譲をさせて行ったのは、
なかなか凄い人だと思う。
また、今までの中国の歴史だと、禅譲で譲られた以前の主君で有る、前王朝の皇族は、
用が済むと暗殺される事が多かったのだが、彼は前王朝を、
宋王朝の遺訓として、代々大切に保護する様に、として居る。
実際に周の皇族は、モンゴル帝国に宋が滅ぼされるその時まで、
宋の皇族と共に存続した。
また、官僚制度の改革を行い、科挙の最終試験には、皇帝自ら面接試験を行って、
官僚の合格者を選抜したりした。
この制度の始まりは、趙匡胤からの制度だ。
また、官僚は国の根幹である為、言論の自由を国是とし、
皇帝で有っても、言論に起因する事で、人を殺めては成らない。
と言う事も定めた。
この様に、色々な思想や意見を尊重し、官僚を優遇した事で、
非常に強固な官僚組織を作る事が出来た。
また、歴代の創始者は、創業が成ると、創業の功臣を少なからず粛清する者だが、
この趙匡胤は、第1位に成っている劉秀と並び、数少ない粛清をしなかった皇帝だった。
しかし逆に、官僚優遇(文治主義)に偏り過ぎ、軍縮等で武を軽んじて居た為に、
その軍隊は、歴代王朝でも最弱と評価を受ける事もしばしばで有った。
これにより周辺諸国と戦争すれば必ず負けてしまう体たらくで、
これにより、周辺の遼や、金、西夏、蒙古等の侵攻に、常に悩まされた。
それで、蒙古以外の国々には、毎年大量の賠償金を支払わされる事態に成った。
が、その代わり、戦争をせずに、国は長く平和を維持する事が出来た。
この頃の宋は、歴代中国王朝の中でも、一番経済的には充実した時期で、
経済力は特出した物が有った様だ。
軍事力は弱いが、経済力は一級。言わば、お金で平和を買って居たと言えなくも無い。
また、この王朝の首都は、江南からの物資が運河に因って集積される、
経済の要衝、開封を都としていて、前代の都、長安は、政治都市として世界に広く誇示して居たが、
この街は、まさに経済の都だった。
中国全土から商人が集まり、夜も屋台や商店が閉まる事も無く、
夜中じゅうも、街の灯かりが消える事が無い。と言う様な活況を呈して居たと言う。
まさに不夜城で有った。
また、開封の都は、国内複数の大都市の中で、東方に位置して居た為、
別名、東京(トンキン)とも呼ばれて居た。
まさに、「眠らない街、東京」で有る(笑)
(どこかのサッカーチームの応援歌みたいだな(苦笑))
この様に、お金で平和を買う。不夜城の都を持つ。等、するので、
よく宋王朝は、現在の日本と類似している。と言う指摘も有る。
とにかく、そんな平和を謳歌する。と言う方向性も、何だか王朝創始者の趙匡胤が
作った王朝。と言う感じがして、争いを好まない彼の性格を現して居る様で、その点は好感が持てる。
ここまで書くと、すこし平和ボケの元凶の皇帝にも感じるが、
皇帝に即位するまでは、獅子奮迅の働きにより、群雄割拠の動乱を納める為に大活躍して居るし、
周の下地を受け継いで居る。とは言え、周辺諸国を降す為の手腕も見事なものだった。
これらの軍事的才能は、彼よりも下位にランクされている皇帝達よりも、
優れた才能だと評価している。なので、5位と言う事で、評価させて頂きました。
本当ならば、下済み時代の武勇伝もかなり色々面白いのですが、
文章の分量の関係上、今回は割愛させて頂きました。
詳しくは、筆者が開設して居る中国の群雄割拠ページで、将来もっと詳細に、
彼の列伝として文章にしたいと思って居ますので、期待せずに(汗)更新を気長に御待ち下さい(苦笑)