近所の小学校に行ったら
藤の花が満開でした
寄ってみる
も少し寄ってみる
藤色のシャワー。。。綺麗でした
ついでといっては何ですが
校庭の隅に<鴫野古戦場跡>という
石碑があるので紹介しておきます。
(城東小学校↑大阪市城東区鴫野東3-16ー41)
大坂冬の陣は
慶長19年(1614年)豊臣家が京都の方広寺で秀吉の供養を行った際
鐘の銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」という文字に
家康側が難癖をつけたことがきっかけとなり(方広寺鐘銘事件)
慶長19年(1614年)11月26日、徳川方が豊臣方を攻撃し戦闘が開始
この地域は低湿地帯や田園で、戦には向いてなくて
堤防上のみで戦闘が繰り広げられ
主に銃撃戦であったといいます。
大和川を挟んで北岸に今福村、南岸に鴫野村があり
鴫野には、徳川軍の上杉景勝、
今福には佐竹義宣(徳川軍)、後藤又兵衛、木村重成ら(豊臣軍)が陣取っていました。
↑(こちらは鴫野から少し離れた所にある
<若宮八幡大神宮>の「由緒之碑」)です。
このあたりが
大坂冬の陣において行われた戦いの一つである
<鴫野の戦い 今福の戦い>の舞台だったのです。
藤の花が満開でした
寄ってみる
も少し寄ってみる
藤色のシャワー。。。綺麗でした
ついでといっては何ですが
校庭の隅に<鴫野古戦場跡>という
石碑があるので紹介しておきます。
(城東小学校↑大阪市城東区鴫野東3-16ー41)
大坂冬の陣は
慶長19年(1614年)豊臣家が京都の方広寺で秀吉の供養を行った際
鐘の銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」という文字に
家康側が難癖をつけたことがきっかけとなり(方広寺鐘銘事件)
慶長19年(1614年)11月26日、徳川方が豊臣方を攻撃し戦闘が開始
この地域は低湿地帯や田園で、戦には向いてなくて
堤防上のみで戦闘が繰り広げられ
主に銃撃戦であったといいます。
大和川を挟んで北岸に今福村、南岸に鴫野村があり
鴫野には、徳川軍の上杉景勝、
今福には佐竹義宣(徳川軍)、後藤又兵衛、木村重成ら(豊臣軍)が陣取っていました。
↑(こちらは鴫野から少し離れた所にある
<若宮八幡大神宮>の「由緒之碑」)です。
このあたりが
大坂冬の陣において行われた戦いの一つである
<鴫野の戦い 今福の戦い>の舞台だったのです。