金魚cafe

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柳家三三独演会 たびたびさんざ ナレッジシアター

2016-10-06 00:32:30 | 落語
グランドフロント大阪ナレッジシアターで落語会なんて初めてなのかしらと。

私には駅からすぐだし、落語の後は好きなお店をのぞいたり、お茶したりとアフターの楽しみもありで大歓迎です。

ちょうどグラフロの広場でビーチバレーをやってまして見とれているとわ~~開演時間が~~とあわてて向かいました。

私が聞きに行く上方の方々はその日なにをかけるかというのをお知らせしていて、あ~~これは前に聞いたことがあるとか、今回初めてでどんなふうだろうワクワクとかそんな感じなのですが、三三さんはいつも何がでるかは聞いてからのお楽しみって感じで終わってから書きだしてあるのです。

そしていつものように細身の体をすいすいと歩いて折りたたむように座られてはじまります。

枕でやっぱりグラフロについて触れられておりました。
私が観ていたビーチバレーもなんでわざわざ砂運んできてするんだろう?

とか三三さんは甘党のかたなのでグラフロの超有名タルトのスイーツにも興味深々って感じで「茶の湯」という噺を。

お江戸のあるお店の主が一生懸命働いて財を築いて息子に譲り根岸に隠居所を構えました。

このご隠居さん、お気に入りの丁稚の定吉どんをつれてきましたが、この子がちょっとこまっしゃくれた子でご近所をあちこち見て歩いてここは風流な方々が住んでいるからご隠居さんもなにか趣味でも持たれたら?と進めます。

仕事一筋で遊んだことのないご隠居さん見よう見まねで茶の湯を始めますが、これがとんでもない大間違い、それを自分が持っている家作の店子たちにお茶をふるまうのですが誘そわれたほうは大迷惑、何とかして逃れようとしますが、ご隠居さんと定吉どんはそうはさせじとというお腹が痛くなるほど笑っちゃいました。

次がお「お血脈」というお題で、話がずっと枕でしゃべっていていつ本題に入るの?って思いつつもその面白さに惹きつけられてその先はどうなるの??

まずお釈迦さまからのスタートで日本に仏教が伝来したときは阿弥陀さまとして渡ってきたけれど当時(蘇我氏、物部氏の時代みたいでした)仏教が受け入れられずに阿弥陀さまは大阪の池に沈められてしまいますが、それを救った人が信州信濃の善光寺さまに安置されることに。

そういえば善光寺さんに公開されない秘仏があるとか聞いたことがありますが、それがその阿弥陀さまだったのかした?

と、あっちこっちに話題が飛んでやっと本題にその阿弥陀さまを盗もうと石川五右衛門がでできたりと噺について行かなくちゃいけないんですが、それはそれで面白かったです。


中入りのあと「万両婿」。

お江戸の小間物の行商をしている男が上方に商売に行こうと思いたち、半年ほど留守にするので大家さんに女房のことを何卒よろしくと頼んで旅立ちます。

その途中の小田原で追いはぎにあった人を助けて自分の着物とお金を分けてあげます。

そしてそのまま上方に旅だっていきました。

助けられた人はいろいろな苦労が祟って亡くなってしまいました。

残った身の回りのものから行商の男ではないかと間違えられてしまいます。

普通は悲劇なんですが、おっちょこちょいの大家さんのおかげで悲劇が喜劇になり、残された女房は亭主が死んだものと思い再婚までしちゃいます。

そこに何もしらぬ男が上方から戻ってまいりました。

当然もめますよね~~。

大家さんは自分で蒔いた種を上手く収めることができません。

そこで登場するのが名奉行大岡越前守忠相サマ。

超高速参勤交代から大岡サマにご縁があります。

さあどんな名裁きが下されるのでしょうか。

他の大岡政談でも良く似たような話がありまして、皆平等に損をして平等に得をするという。

三三さんの上方では聞けないお江戸の世界へと連れて行ってくれる口跡の清々しいお話、年に何度かこちらに来られるのを楽しみにしております。

枕でしきりにグラフロのスイーツを気になされていた三三さん、召し上がられたのでしょうかね~~。




猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界(4)

2016-10-03 23:25:32 | 古典芸能
プログラムも3で最後です。

笑三郎さんが再び進行して先に映像を拝見しました。

三代目の猿之助さんの「ヤマトタケル」です。

私は四代目の猿之助さんのをシネマ歌舞伎で観ました。

スケールの大きな話、衣装の豪華さと素晴らしいものでした。

三代目の猿之助さんの映像を観て衣装がちょっと違うのかなあと。

殺陣などもこの前観たワンピースと良く似ているところもあり、受け継がれているのだなあと。

映像を観た後で四代目市川猿之助さん登場されました。

笑三郎さん、右近さんはスーツ姿だったのですが、四代目猿之助さんはカジュアルなシャツとジーンズ姿でした。

それでも違和感感じさせないのは持って生まれた育ちの良さからくるものかもしれませんね。

「今日は無料のイベントにようこそ、いつもは埋まんないのに(春秋座が)無料になるといっぱいになるんです」といつもの調子でおっしゃいます。

いつでも猿之助さんらしくぶれないのがいいのかなあと。

今歌舞伎界がこうしてあるのは三代目市川猿之助のおかげですと。

スーパー歌舞伎は現代語で演じ、和楽器を指揮していた(普通は指揮などしない)着物で稽古するのに洋服で稽古していた。と今までの古典と違うものだったそうです。

猿之助さんが歌舞伎以外の舞台に出られた時は初めましてと顔合わせして俳優同士仲良くなるのに一か月ぐらいかかった。

歌舞伎は生まれた時から知っているもの同士だから稽古の時間というのは短い。

音楽はテープで照明はコンピューター制御のものと全く違うものであった。

困るのは音楽はすでに録音してあるので音楽の時間に動きを合わせなくてはならない。

普段は弾いている方々が動きに合わせてくれている。

衣装も西洋式なので着物は腰で着る、西洋の衣装は肩に力が入るので肩が凝ったなどといろいろな苦労もあったそうです。

三代目のときは本当に大変だったようですが、現在は音楽や照明などに関してはメールでやり取りすればすぐ解決するようになったと文明が進むといいこともあるのですね。

そして三代目が育てた澤瀉屋さんの皆様がやり方を知っているから問題が起きても大丈夫。

これは他から来られた方はびっくりされるそうです。

猿翁さんと自分との違いは猿翁さんは稽古が好き、自分はキライと。

なんていつもこんなことおっしゃっていますが、キライといっても必要なことはちゃんとなさっているのです。

猿翁さんが澤瀉屋の皆様を育てたように自分も育ててみたいとその効果はワンピースなどで現れていました。^^

楽しみな方がいっぱい出てきています。

そしてこの本来のフォーラムの目的で猿翁さんが残した貴重な映像を保存するためには日本にその機械が一台しかない膨大な予算がかかるので協力をお願いできないでしょうかと。

そうです。猿之助さんといえば募金です。

皆様に協力いただければいつでも猿翁さんの貴重な映像を観れるようにしたいと。

春秋座のロビーにもいっぱい展示してありましたが、戦前の猿翁さんの幼少時代のフィルムもあり観れるといいなあと微力ながら協力させていただきました。

シネマ歌舞伎のワンピースのこともしっかりPRされていたので観に行かなくちゃです。




猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界(3)

2016-10-02 09:29:36 | 古典芸能
2三代目市川猿之助の仕事とうテーマで三代目、四代目市川猿之助歌舞伎の脚本演出を担当された石川耕士さんと市川笑三郎さんで進行していきます。

ここでは三代目市川猿之助さんがどんな方なのか、生い立ちからスーパー歌舞伎を立ち上げるまでを解説してくださいました。

私はざっくりとしか知りませんでしたが、三代目市川猿之助を襲名されたのが昭和38年5月23歳で襲名されました。

昭和14年生まれでまず團子→猿之助→段四郎と襲名していくのが襲名というのはとてもお金がかかるため、猿之助、段四郎を同等とし、猿之助を襲名したら次の世代は段四郎を交互に襲名すればよいと初代の猿之助さん(三代目のおじいさま)がお決めになられて当時は三代目のお父様も健在でしたので團子から猿之助まではまだなので猿之丞というのはどうだと打診されたそうですが、三代目の猿之助さんは当時23歳と若かったこともありそんな名前は嫌だとおっしゃったそうです。

猿之丞は嫌だけど雪之丞ならよいと。

そのため初代猿之助さんは猿翁を名乗られのです。

もし、順当に襲名されていたら雪之丞になっていたのが初代猿翁さんが倒れれられて急きょ猿之助を襲名され、初代猿翁がするはずだった「黒塚」を自分が代役すると申し出られました。

本来ならば23歳の若者に老婆を演じさせることはなく、おじにあたる市川中車さんが代役をするところを自分がと。

TVで四代目の「黒塚」を拝見しましたが、古いものだと思っていたら昭和14年が初演の新しいもので昭和14年生まれの猿之助さんには思い入れが強かったのではないかと。

私は前に他の歌舞伎の方のお話を聞いたときに自分に役が回ってきてから初めて教わることができると、将来この役をやりたいから教えを乞うというのはないそうです。

なので三代目猿之助さんはおじいさまに教えてもらえるわけもなかったのに、いつかはと思っておられたのですね。

観て覚えたと。

ここで古い映像の三代目猿之助さんの黒塚を観れました。

四代目とよく似ておられます。

なんか違う、上手く言えませんが三代目が観たのは初代の「黒塚」、四代目は三代目のであろうからその差なのではないでしょうか。

どちらも素晴らしい。

その差を「三代目の猿之助さんに半ズボンをはいてルフィをやれといわれても」という上手いたとえでした。

襲名披露の後おじいさまが亡くなり、その五か月後にお父様も亡くなった。

そのときの心中は悲しみと新しい自分のスタートが始まるという両方の気持ち。

新しいことを切り開いてきた三代目猿之助さんであってもおじい様、お父様が健在で新しい試みを止められればしたがっていたであろうから、誰に遠慮することなくやりたいことができるという気持ちの方が強かったのではないかと。

それに祖父、父という後ろ盾がいなくなると若い三代目にはいい役が回ってきません。

それならばとやりたいことをやる。

それで「義経千本桜」の宙乗り、「加賀見山」での早変わりと挑戦されて個人名で興行を打てるほどに。

映像はモノクロでしたが、それでもわあ~~~っ!!と客席からため息がもれるほどの素晴らしさ、きっと生で観たらもうポカーンと口を開けたまま見とれてしまいそうでした。

私の大好きな藤山直美さんが中学生時代に学校を抜け出して南座に通い詰めていたという気持ちわかりました。


そしていよいよ四代目の登場。

どんなお話をされるのか?

猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界(2)

2016-10-01 23:26:40 | 古典芸能
日にちが空いてしまいましたが、続きです。

プログラムに1(三代目猿之助と春秋座)市川右近さんと京都造形芸術大学理事長徳山豊さんの対談。

      2(三代目猿之助の仕事)脚本家の石川耕士さん。

      3(三代目猿之助の功績~スーパー歌舞伎)四代目市川猿之助
となります。

こんなにがっつり中身の濃いものだとは私は思っておりませんでした。

まず市川右近さんと徳山豊さんとの対談から。

スーツ姿の右近さん、右近さんは関西出身の方なのですがあまりトークを聞いたことがありませんでした。

柔らかな関西弁で師匠との春秋座についてお話されました。

1992年に猿翁さんが京都造形芸大に講義に来られました。

西洋の芸術の理念を持った大学は数あれど東洋の芸術の理念を持った大学はここしかなかった。

初年度は2週間集中講義で右近さんは師匠のサポートをするために大学に来られました。

でも何を教えればよいかわからなかった。

当時の大学には演劇を教えるコースがなかったのでそこで歌舞伎を教えなければならないのかと初めてなことで教える方も教えられる方も戸惑いがあったようです。

当時の理事長が「人は涙を流すほどの感動をして反省をしてそのときすごい向上心が生まれる」と猿翁さんおっしゃったそうです。

猿翁さんは「僕の持っている歌舞伎感を教えます」と。

まず歌舞伎を見てもらい、それを分解して振りを見せながら演劇方法を教え午後は踊りを教えたそうです。

その前に基礎の基礎でまず着物の着付けから始めました。

着物ってお正月や成人式しか着ないものだったのでそこからでしょうね~~。

生徒さんは日本画を専攻しておられる方々で共通していることはまず真似してみる。

デッサンから始めるのと共通しているなあというのが右近さんの感じたことだったそうです。

分野は違うけれど教え、逆に教えられとお互いに得られるものがあったと。

最初は学生さんも熱心ではなかったけれども猿翁さんの熱心さにのめりこんでいったと。

ここで貴重な大学で「連獅子」を素踊りで踊っておられる映像が見れました。

獅子のたてがみも付けていないのにその迫力に圧倒されました。

三代目市川猿之助さんの踊るところを初めて観たのでこんなに柔らかく力強く踊られる方なのだと。

当時の様子を懐かしそうにお話される右近さん、猿翁さんに対する思いの強さが伝わってきました。

京都造形芸術大学さんでは猿翁さんに講義を依頼したときから春秋座の建設の構想があったそうです。

猿翁さんの歌舞伎ができる劇場ということでこんな立派なものができたのですね~~。

コンセプトは「お客様と演じ手が一体感となる距離感」 確かに観やすいし、席もゆったりしてるし本当に考えられてるなあといつもこちらに来させていただいたとき感じます。

あと長い時間観劇を観る人間からいたしますととってもありがたいのはお手洗いの数が多くてそんなに並ばなくてもいいということです。
そしてお化粧直しできるスペースもゆったりしてなんていうか安心して観れます。

あと第二、第三と続きます。

また次回に。^^