この秋に4回目になる、恩田井水を訪れるのは。地元では「恩田井」あるいは「恩田井水」と呼ばれている水路は、命の水とでも言って良いのだろう。それは水道水に利用されているからだ。そのことはまた後に触れるとして、この水路をはじめて訪れたのはもう30年ほど前のこと。当時は直接この水路のことに携わっていなかったが、同じ所属の同僚が担当していたから、年に1度は訪れていたと記憶する。今でこそ玉屋の大沢に立派な歩道橋が架けられているが、当時はもっと沢水に近いところを渡って入ったと思う。これは大沢の上流から入った場合だが、日の入山の南にある越田峠(大野と伍和の境にある)側から入ることも度々あった。いずれにせよ、どちらから入っても水路延長にして3キロほど水路は、山腹を蛇行しながら歩いて入るしかない水路だったわけであるが、それは今もほぼ変わりはない(現在は峠側から約1キロほど車で入ることはできるが、一般車両は入れない)。いわゆる投稿線沿いに蛇行して歩く道があるのだが、昔も、今も深沢の隧道上のあたりはその道も獣道に近い。蛇行して歩く山腹の道は4キロ以上。おそらく当初はこの蛇行して歩く距離が水路の延長だった。なぜそれが1キロほど短くなったか、それは隧道化したからである。急峻な山腹に造られた水路は、県内のいたるところにある。とりわけ恩田井水の造られた山腹の環境は崩壊が著しい。それだけにこの水路を造ったこと、そしてそれを維持していることの苦労は、たとえば水田地帯を見ただけでは解らないこと。県内の農業用水環境は同じような環境にあるものが少なくない。そして大規模な水利事業によって、歴史あるこうした水路が幕を下ろしている例も少なくない。
昭和34年に当時の伍和小学校の校長として赴任していた赤羽千鳳氏によって著された『寒原の水』は、平成5年に追録されて復刻版が発行された。その中で赤羽氏はこの水路の歴史を記している。現在の阿智村伍和(ごか)の地に西方に連なっていた松沢山の向こう側の寒原から水を引くという着想は、万延年間(1860年から1861)に太田宗碩という漢方医によって始まるという。明治になってからその着想を現実的にしようという動きが現れ、現在もある「恩田井水組合」というものが結成されたのは明治26年(1893)だったという。測量、そして村外ということもあって借地交渉など数多い難問を解決して工事が始まったのは明治28年という。さまざまな権利上の契約とともに、工事にかかわる契約もみたが、「一応の会計をすませたが、事業にはこうした表面に現れた費用以外に金を必要とするものである。組合幹部の度重なる出張費・酒食費・雑費等が多くなり、今後の莫大な工事費の徴達が思うように得られない苦境に追いやられるに到った」と同書には記されている。そして組合事業ではなく村の事業として進めて欲しいという嘆願書を出して承諾されている。赤羽氏はこうも記している。
ここで一言しておきたいことは、当時のこの地方の社会相であるが、由来伍和の地は下条家の阿知川線に配備した家臣が名門地主となって勢力があった所で、この地方の戦国以来の実力者の消長はここで述べている暇はないが、この当時由緒ある地主の中には伊賀良、川路その他に広い田地を所有し、多くの小作人を置き、米倉は各所に建ててあり、三百俵以上の年貢米を収めていたのである。これらの人は封建的な時代とあってみれば、常に村民の推挙を受けて、村政その他万事に実力があったわけである。
これらは、この井水組合幹部にも推されて、個人的にも波合、智里の実力者とも関係があり、大いに影響力が強かった。
やはりこうした大事業は、こうした財力と実力を持つ人を立てて、その影響力にある程度頼ることは効果的であった。これらの幹部は村政にも事業にも自己の財力で相当の負担も惜しまず、自分の仕事として尽力したのである。もちろん酒食による談合や抱き込みはある程度いたし方のないものと思う。
それによってこの井水工事の契約には多少無理を押したきらいがあったことは肯定出来るのである。波合村民からの中途においての賠償金額についての不満申出による問題も、こうした無理押しを受けた他村の下部農民の反抗と見られる一つの現われのように見られるのである。実力者間の了解も下部に不問にする事の多かった往時においても、土地に関する問題はそれにしても仲々困難なものであったことがうかがわれるわけである。
当時の大事業の背景が垣間見える記録である。
恩田井水から大沢を望むと、対岸に国道153号が見える。今は谷に車の轟音が鳴り響いている。
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