法上の四角い石が根石、左の法面にある石の塊らしきものが道祖神
転がり落ちた「道祖神」
先日の長野からの帰り、生坂村へ少し立ち寄ろうとして選択したのは小立野の道祖神だった。小立野もとりわけ小立野入と言われる奥まった地域には、『生坂村誌文化財編』によると双体道祖神が何基も点在している。そのひとつ泥沢の道祖神を見てみたいと思って小立野から天神沢を遡った。とはいえ、石仏の位置を示した地形図には家屋が点在しているが、天神沢沿いの道に薄ら残った雪からうかがうと、車の通行は少ない。「居住者はいない」という印象がそこから読み取れた。もはやこの地域で奥まったところの集落は廃村化している所ばかりなのだろう。沢沿いから分岐するような道は、ほぼ通行した形跡はなく、道も狭い。天神沢沿いに車を停めて歩いて分けいろうとしたが、この時期でも竹が覆いかぶさっていて、歩くかつての道の形跡がはっきりしない。諦めてあらためて地図で確認しながらもう少し奥まで車で入り込むと、いよいよ行き止まりに。そこからは歩いて進むわけだが、廃屋がかつての道らしい道を教えてくれる。かつてどれほど家々があっのかわからないが、廃屋の様子からすでに人々が去って20年あるいは30年は経過している様子。竹やぶの中に廃屋がかろうじて建っているが、車道は遥か下にあるから、この家も30年、あるいは40年前に遡らないと人々の息遣いはなかったであろう。そんな家の脇を登ると尾根の頭に立派な墓地が現れた。笠を載せた墓石がいくつもある。刻まれた文字から推察すると、ここの墓地は夫婦で墓石を建てているものが多い。それこそ50年ほど前に建てられた最も新しそうな墓石も、ひっくり返っていて、すでに祀られることはない墓地という印象だ。地図でうかがうと、この墓地上あたりの尾根に目的の道祖神はあるはず、そう思って比較的平らな尾根の上に出るが、それらしいものが見えない。「どこかに移転されたのだろうか」、そう思って諦めて、谷の反対側にあると思われる丸木七社へ歩いて向かった。
丸木七社のことは後日触れるとして、丸木七社から再びこの地に引き返してくると、尾根に石仏の台石というか根石らしきものがあって気になった。「ここにかつて道祖神があったのかも」、そう思って背後の傾斜地に目をやると、石の塊らしきものがひとつ転がっていた。「もしかしたら」、そう思って転がっている石の向こう側に行ってみると「あった」。今日の目的としていた道祖神なのである。根石らしきものが傾斜していて、あたかも転がってしまったようにも思えたわけだが、本当に転がってしまっていたというわけだ。起こしてみようとするが、地面に突っ伏したように頭から転がっている道祖神は、凍結した地面に捕まえられていて、とても起きるようなものではない。数人がかりでなければこれは起こせないし、元あった場所までは簡単には持ち上げられそうもない。廃村の道祖神の行く末を見たような気がした。
この道祖神「堂の尾根」と言われる場所にあるから、泥沢にかつてあった阿弥陀堂とはここにあったのだろうか。双体像に向かって右側に「帯代五両」、左側に「泥沢村」と刻まれている。高さ69センチの碑である。頭巾を被っているようで、背の高さから向かって右側が男神、左側が女神だということは解る。表情もそれらしい。それぞれ肩に手を回している。このあたりの石仏は砂岩質のものが多く、風化の度合いからして、年銘はないもののそれほど古い時代のものではないようだ。
廃屋
祀られることのない墓地(墓地一帯が傾斜している)
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