Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

縁の下

2009-05-04 23:39:14 | 民俗学
 飯島吉晴氏は『日本の民俗8』(2009/3 吉川弘文館)の中で高取正男氏の夭折した子どもの葬法について書いた次の文を引用している。

「七歳の氏子入りまでに死んだ子は大人たちのように遠く離れたところに送ろうとせず、なるべく近いところに休ませてやり、もういちど生まれかわってくるのにきやすいようにはからってやった。いちばん極端な例では、早産などでこの世を光もみないで、息も吸わずに死んだ赤ん坊は家の床下に埋めたという村もあった。そして一般の墓地は集落と耕地を中心につくられている日常の生活圏から離れた場所につくり、大人たちをそこに埋葬するようになっても、子供たちは村はずれなどとよばれる集落の出入口の、道路にそって道祖神や石地蔵などの祀られているような場所の近くに埋め、村の日常から離れているようで実際は密接に結ばれている場所を子墓とし、子三昧、ワラベ墓などとよんできた。」(1980 「地蔵菩薩と民俗信仰」『新修 日本絵巻物全集』29 角川書店)

 今では宿った子が成人を迎えずに亡くなるということは少なくなった。「七つまでは神のうち」と言われた背景も、多産多死という環境が生み出した言葉なのだろう。だからこそ生まれて以降節目節目の儀礼を重視していた。形だけ残っている現在の儀礼もその背景にある理由は同じようなところから始まっている。前述した事例には再生の気持ちが十分にうかがえて、その意図は今でも理解される部分なのだろう。

 早産で亡くなった子を縁の下に埋めたという話はかつてよく聞いたような気がする。今では水子供養ということをするが、かつてはそうした供養を必ずしもしたわけではない。「よく聞いた」ことをよく思い出すと、わたしは祖母からその話を聞いたと記憶する。祖母にも早産の子がいて、縁の下に埋めたの埋めないのという話を聞いた。はっきりと記憶にはない。『長野県史民俗編』を紐解いてみると次のような事例があった。
○「生まれたばかりのミズッコは縁の下、または床下に埋葬した。家によってはカラウスをつく踏み場所に埋めた。(阿南町新野)」
○「ミズッコは寺から受けた血脈と一緒に産室の床下に埋めた。(上村中郷)」

 今でこそ住宅の縁の下の空間は閉ざされた空間であるが、かつての家では縁の下は開いていた。そこは物置としても利用されたし、ジャガイモが転がっていた空間という印象を持っている。その縁の下を子どものころにはよく隠れ家としたものである。もちろんかくれんぼのような遊びにも利用される空間だった。わたしの印象ではそのほかにもこんなときにも利用された。歯が抜けたとき、上あごの歯は下に向いて生えるようにと縁の下に捨てた。ほかにもそういうことが言われていたのかと調べてみると、『上伊那郡誌 民俗篇』に同じ事例があった。

○「上の歯なら縁の下へ捨てて「上の歯下へ向いて生えろ」という。下の歯なら屋根へ放り上げて「下の歯上向いて生えろ」という。」

 そう思って今暮らしている住宅を見回すと、縁の下はもちろんのこと天井も、さらには屋根も遠い存在になっている。かつて子どものころ、屋根や天井、そして縁の下にもぐりこんだ記憶は今の子どもたちにはもうないのだろう。

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