仕事でお世話になっている方と立ち話を。お父様が脳梗塞で倒れて危篤状態だった2ヶ月ほど前に、いつお葬式で急に仕事に離れるようになるか解らない状況だと聞いていた。結果的に持ち直したものの、今もそれほど状況は変わっていないし、意識はほとんどないことから覚悟はしていると言うが、そんな状況で2ヶ月過ぎている。倒れる当日まで新聞配達をされていたというお父様は88歳だったという。本当に元気だったこともあって、周囲は突然声が聞こえなくなり、そして姿も見えなくなって寂しい限りなのだろう。「しだいに」と「突然」では大きくアプローチが違う。
妻は義父の身近にずっといて義理の多かった義父の交流を支えてきた。したがって義父と親交のあった人たちをよく知っているし、葬儀の際にも喪主よりもはるかに告別式に来られた方たちの顔がわかった。したがって義父が亡くなるということは、その親交のあった人たちとも交流がなくなっていくというちょっとした寂しさのようなものを今は感じているだろう。加えて近ごろ話すのは、年代が年代だけに、そうして親交のあった方たちも他界されたり、体調を崩されたりと、かつてのような関わりがなくなっていく現実がある。先日も初彼岸だとお参りに来られた方は、少し早いのだがまもなくやってくる誕生日で免許を返納されるという。返納される前に初彼岸のお参りに来たという。まだ80歳を少し超えたところなのだが、近ごろいろいろ心配になってこられたようで、奥さまが勧めたよう。奥さまも運転はされるが、今まで来る際にはご主人が運転されてきた。ということで、これからは近くの買い物などにしか車は使わなくなるとのこと。妻にとってもずいぶん親交のあった方だけに、今後は顔を見せに来られなくなるのがとても残念というわけだ。
自分たちも年老いていくのだからあたりまえのことなのだが、周囲で同じような歳の顔がしだいに見えなくなっていくのは、それぞれにとって寂しいのはもちろん、年老いていくことで取り残されていくようなところもあるだろう。今は次世代が同居しないのがあたりまえのようになってきているから、周囲から人の顔がなくなっていく。年老いること、歳を重ねること、いずれにしてもえ今の高齢化社会から「寿」感はすでに喪失しているとも言える。
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